Wednesday, October 11, 2006

宗教を考える~キリスト教④

キリスト教の教えは今日最も広く用いられている「使徒信条」に要約されるだろう。今日でも世界中の諸教会が用いている。それによると、神、キリスト、聖霊、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがえり、永遠の生命の8つの教理となる。それに日本では聖書、を加えた9つの教理である。
しかしこれだけでは無味乾燥なので我々の生活に身近な問題から入れば、
1.先ず如何に生きるかという問題に対して、キリスト教では人間や世間の評価より、見えない永遠の神によって「ヨシ!」とされ、つまり義(ぎ)と認められることを問題にする。そしてキリスト者が神に祈るのは、単に健康や商売繁昌というご利益(りやく)を求めるためではなく、ただ神の栄光を現わすために生きさせて下さいと祈る。
2.次に如何に正しく、有意義に生きるかという問題に対して、キリスト者はまず人間がいかに正しくありえないか、無意味な存在かを自覚し、救われるためには善行を積んで道徳的優等生になることではなく、己れの空しさや罪深さを告白し、初めの「イエス・キリスト」で書いたように、十字架の上で語られた執(と)り成しの言葉にすがって、赦(ゆる)され、正しくありたいと願うのである。だからふつうの意味で「正しく生きる」とは正反対に、「正しく生きられない人間の告白」の上に立って生きるといった逆説的な生き方となる。
.人間の最後の問題はいかに死ぬかという死生観の問題になるが、これも初めに書いたようにイエス・キリスト自身がよみがえって永遠の生命があることを教えられたように、人間もまた信仰によって永遠に生き、天国で神と共に住めるのだという明瞭な死生観に立っている。キリスト教ではまず生きている我々の死生観を問う。それから死んだ人の魂が安らかに天で憩(いこ)えますよう祈る。だからキリスト教では死者の魂を鎮(しず)めるために盛大な供養をするということに余り関心を示さない。まして死霊の祟(たた)りなどということも信じない。
またキリスト教では死者を神としてあがめたり、死者に祈って生者の幸せを願うことをしてはいけないと厳しく戒(いまし)めている。しかし死者を決して粗末に扱うようなことはしない。立派にお葬式をするし、墓に納める。

(引用文献:仏教 キリスト教 イスラーム 神道 どこが違うか) 

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