宗教を考える~イスラム教(イスラーム)⑥
イスラームでは神と人間との仲介は神の言葉であるコーランであり、救済に関して特別な権能を持つ人格も、聖職者も存在しない。全てのムスリム(イスラーム教徒)がが等しく、コーランとシャリーア(イスラーム法)に従って生きなければならないのであり、一部の特別な人にのみ妥当する特別な修行は無い。「イスラームには修道院はない」と言われている。このことは、日常の社会的生活の場を離れ、宗教的な生き方に専念する場所はイスラームには無いことを意味する。つまり、通常大半の日本人が考えるように、修行とは宗教的な境地や理想を求めるため、社会的生活を離れ、瞑想や禁欲などを含む宗教的な訓練の行為であると解釈するならば、イスラームには修行は無い。だが、修行とは理想的なムスリムになるための訓練の行為と考えるならば、イスラームにも修行はある。理想的なムスリムとは、信仰し、善行をなす者である。単に心の内面で神を信仰し、神に帰依(きえ)※1することに留まらず、現実に行為しつつ生きる場面でシャリーアに従わなければならない。少なくともシャリーアに従おうと、できる限り努力することによって、理想的なムスリムに近づくのである。
シャリーアは礼拝や断食などの儀礼行為の規範だけでなく、ムスリムが日常の社会生活の中で家庭を営み、経済活動を行うために必要な様々な生活規範も含んでいる。つまり、宗教的な儀礼行為と同時に、日常的な社会生活上の諸行為もムスリムにとっては修行である。このように考えると、先の「イスラームに修道院はない」という表現は、むしろ「イスラームでは日常の社会生活の場の全てが修道院である」と言い換えた方がふさわしい。ちなみに、シャリーアの元来の意味は「道」であり、それに従うことは「修道」でもある。
イスラームにおいても、信仰・帰依は超越的な神と向き合う個人の内面的精神の事柄である。だが、現実において、信仰者は単なる精神的存在でもなく、単独者でもありえない。イスラームではムスリム(人間存在一般)は個人的精神的存在であると同時に、食欲・性欲をもつ身体的存在であり、社会的存在でもあり、それらを分けることのできない統合的存在と考えている。それ故、「出家」が宗教的なあり方だと認めないし、また、出家して禁欲的修行のできる一部の練達者※2と大衆(俗信徒)との差別も認めない。ムスリムは普通に家庭を持ち、経済活動によって糧(かて)を得る者である。このようなムスリムにとって、宗教的に生きることは社会を脱することではなく、社会のただ中においてしかない。このような人間観、あるいは宗教観がイスラームの特徴である。
(引用文献:仏教 キリスト教 イスラーム 神道 どこが違うか)
※1帰依:神を信じ、その教えに従うこと
※2練達者:修行や練習を重ね、その道の奥義を極めた者
Wednesday, October 18, 2006
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