Sunday, June 17, 2007

ひとりごとⅨ⑳

第37代総理大臣 岸信介Ⅰ
1896年11月13日生~1987年8月7日没(90歳)
山口県熊毛郡出身。東京帝国大学法学部卒。東条内閣の商工相だったにもかかわらず、岸は復活し、安保条約改定により反共親米の旗手として日本を再定義することに成功した。だが、戦前的な強権主義で墓穴を掘る。

産業政策を日本と満州で開花させる
岸・佐藤兄弟の故郷である山口県田布施町は、地図でみると海岸から近いが、訪れてみると山間の霧深い村である。粘着質の性格はどうみても海洋民族のそれでないと感じていた疑問が氷解した。祖父母の佐藤信寛(のぶひろ)は、長州藩の無給通(むきゅうどおり:給領地を持たない下級武士)出身だったが、吉田松陰(しょういん)と親交があった。維新後は島根県の県令をつとめ、職を通じて蓄財したらしい。岸家から佐藤家に養子に入った父が、県庁につとめていたころに信介(のぶすけ)は二男として山口で生まれたが、父はやがて田布施に帰り酒造業を営んだ。信介は母の弟で東京帝大を出て岡山医専の教授だった松介に引き取られて岡山の中学に進学したが、叔父の死で山口中学に転校した。最初は軍人志望だったが、虚弱だったのと、叔父の影響で官界をめざすことになり、旧制一高から東京帝大法学部に進んだ。一高入学のときは下位だったらしいが、やがて頭角を現し、のちに民法学者として名をなす我妻栄(わがつまさかえ)らと首席を争った。在学中には、国家主義的な憲法学者・上杉慎吉、北一輝、大川周明(しゅうめい)などの影響を受けた。卒業後に、どうして当時の人気官庁である内務省や大蔵省ではなく農商務省に進んだのかという理由は不明だが、かえって「お山の大将」として伸び伸び才能を発揮し、農林省と商工省に分離したときには、「山っ気(偶然の成功をあてにして思いきったことをする気質)が多い人材を集めた商工省」に所属した。商工省で工務局長まで昇った岸は、満州国の総務庁次長として大陸へ渡り、辣腕(らつわん)を振るう。帰国後は商工省の事務次官となるが、第二次近衛(このえ)内閣で民間から起用された商工大臣・小林一三(いちぞう)と対立して辞職に追い込まれた。だが、満州時代から親しかった東条英機が首相になったことから、東条内閣の商工大臣となり、さらには、「航空機製造省」ともいわれた軍需省の設立により国務大臣兼事務次官(大臣は東条の兼任)となる。ところがサイパン陥落後は倒閣に動いた。不可解にみえるが、岸の論理は、「英米の圧迫を跳ね返すために、開戦して緒戦の勝利を背景に有利な条件で講和することを狙ったが、サイパンが落ちては、本土爆撃が不可避で戦争続行は無理だから、早く講和したほうがよい」という、それなりに筋が通ったものだった。戦後は、故郷に隠遁(いんとん:俗世間をのがれてひっそりと隠れ暮らすこと)したが、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズン(刑務所、処刑台)入りする。未決のまま拘置されるが、東条らが処刑されたあと出所し、追放を解除されて国会に復帰する。岸はその経歴からしても吉田茂に好感情を持つはずもなく、社会党へ入ろうとした時期もあったが、やがて、弟・佐藤栄作の工作もあって自由党に入り、ついで鳩山とともに民主党の結成に参加し幹事長となった。こうして、自由民主党の成立時には幹事長に就任し、総理を射程に入れたのである。
(引用:歴代総理の通信簿 間違いだらけの首相選び 八幡和郎著)
 

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