ひとりごとⅨ⑲
A級戦犯
A級戦犯は、ポツダム宣言に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪人で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪判決を受けた者をさす。起訴された者を含む場合もある。(引用:ウィキペディア)
〔絞首刑=7人〕 東条英機(首相、陸相)、広田弘毅(首相、外相)、土肥原賢二(陸軍大将、奉天特務機関長)、板垣征四郎(陸軍大将、陸相、関東軍参謀)、木村兵太郎(陸軍大将、東条内閣陸軍次官)、松井石根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)、武藤章(陸軍中将、陸軍軍務局長)
〔終身禁固=16人〕 荒木貞夫(陸軍大将、陸相・文相)、橋本欣五郎(陸軍大佐、急進派将校らの「桜会」中心人物、衆院議員)、畑俊六(陸軍元帥、陸相、支那派遣軍司令官)、平沼騏一郎(首相、枢密院議長)、星野直樹(国務相・企画院総裁、東条内閣書記官長)、賀屋興宣(東条内閣蔵相、赦免後衆院議員、池田内閣法相)、木戸幸一(内大臣)、小磯国昭(陸軍大将、首相)、南次郎(陸軍大将、陸相、朝鮮総督)、岡敬純(海軍中将、海軍省軍務局長)、嶋田繁太郎(海軍大将、東条内閣海相)、白鳥敏夫(駐イタリア大使、衆院議員)、鈴木貞一(陸軍中将、東条内閣国務相、企画院総裁)、梅津美治郎(陸軍大将、参謀総長)
〔禁固20年=1人〕 東郷茂徳(東条内閣・鈴木内閣の外相)
〔禁固7年=1人〕 重光葵(東郷のあと東条内閣外相、刑期満了後改進党総裁、鳩山内閣副総理・外相)
〔その他=3人〕 松岡洋右(満鉄総裁、第二次近衛内閣外相)=裁判中病死、永野修身(海軍元帥、軍令部総長)=同、大川周明(国家主義運動家)=裁判中に精神病(梅毒)を発病、免訴・釈放
東条ら7人の絞首刑は判決の39日後、48年12月23日に執行された。その翌日には不起訴となったA級戦犯容疑者19人が釈放された。のち首相となる岸信介(東条内閣商工相)もその中にいた。禁固刑の人々のうち小磯、東郷、白鳥の3人は服役中に病死した。その他は多くが病気などで55年ころまでに仮釈放となり、講和後の58年4月、全員赦免になった。A級戦犯のほかに、連合軍は東アジア各地に49の軍事法廷を設け、捕虜虐待などの罪で日本の軍人・軍属らを裁いた。被告数は5,700人といわれ、984人が死刑となり、無期刑475人、有期刑2,944人を数えた。刑を受けた人々のなかには、朝鮮や台湾の人もいた。(引用:戦後政治史 石川真澄著)
裁判を免れたA級戦犯被指定者
★不起訴により釈放
青木一男、安倍源基、天羽英二、安藤紀三郎、石原広一郎、岩村通世、岸信介、葛生能世、児玉誉士夫、後藤文夫、笹川良一、正力松太郎、須磨弥吉郎、高橋三吉、多田駿、谷正之、寺島健、梨本宮守正王、西尾寿造、本多熊太郎、真崎甚三郎
★不起訴により自宅拘禁解除
徳富蘇峰
☆自殺
小泉親彦、近衛文麿、橋田邦彦、本庄繁
安倍 源基(あべ げんき)
第二次大戦期までの、日本の警察官僚である。1894年2月14日に、現在の山口県熊毛郡平生町で生まれた。旧制徳山中学校(戦後の山口県立徳山高校)を経て、1918年に東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入った。その後には、警視総監や内務省警保局長の地位に上り、第二次世界大戦中には、鈴木貫太郎内閣で内務大臣及び企画院総裁(心得)に就任した。第二次大戦が終わると、A級戦犯の一人として起訴された。しかし、東条英機たちへの処刑が終わると、不起訴となり釈放された。後に叙勲。
B級戦犯・C級戦犯
B級戦犯およびC級戦犯とは、第二次世界大戦の戦勝国である連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士ら。A級(「平和に対する罪」)と同様に、B・Cは刑の重さではない。日本のBC級戦犯は、連合国軍総司令部(GHQ)により横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、のちに減刑された人も含め約1,000人が死刑判決を受けたとされる。(引用:ウィキペディア)
「日本沈没まで、あと36日」
Saturday, June 16, 2007
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