Tuesday, May 01, 2007

宗教を考える~新興宗教⑦

【立正佼成会(りっしょうこうせいかい)】
創始者 庭野日敬開祖
代表者 庭野日鑛会長
崇拝対象 久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊
沿革 庭野日敬は、明治39年11月、新潟県中魚沼郡十日町大字菅沼に、農業を営む庭野重吉、ミイの次男として生まれた。尋常小学校卒業後、上京して炭屋に勤め、そこの主人であった石原淑太郎から、六曜、七神の占いを学び、宗教の世界に関心をもっていく。昭和10年、28歳のとき、近所の人から霊友会教団(現・霊友会)の入会を勧められて入信。霊友会新井支部の副支部長という幹部になった庭野は、霊友会会長の小谷喜美の指導方針に納得できず、13年、同会を離脱する。同年3月、庭野は信者30余人を擁して「大日本立正交成会」を創立し、当時、東京・中野で牛乳屋を営む自宅を本部にして布教活動をスタートさせた。=中略=戦前、1,000人程度であった会員数が、戦後になって倍々ゲームで増加、30年代には30万世帯を超えて、大教団の様相を呈していく。立正交成会は、こうした成長過程の中で、3度の試練を乗り切っている。その第一が、正副会長の投獄である。戦前、多くの新興教団が「不敬罪」から国家権力の弾圧を受けたが、交成会も同様の弾圧を受けている。昭和18年、庭野と長沼の投獄がそれだ。第二は、昭和31年に起こる。この年、読売新聞は杉並区和田の現本部周辺の土地購入が不正に行われたとして、連続数ヶ月にわたる交成会の批判キャンペーンを行った。国会もこの問題を無視できず、ついに庭野を呼び出して国会喚問を行う。結果、立正交成会は世間から激しい指弾を浴び、会員の脱会が相次いだ。=中略=ちなみに土地不正の事件は、32年、東京地検が不起訴とし、事件は落着する。第三の試練は同時期に発生した。当時、長沼妙佼を教祖と仰ごうとする一派が決起し、庭野と対立した。彼らは副会長の長沼の権限拡大を求め、血判状を庭野に突き付けるまでにエスカレートする。あわや教団分裂か、と思わせたが反庭野がよりどころとする長沼が32年に死亡。いつの間にか争いは消滅していった。35年、同会は、布教組織をブロック体制に変えた。新興宗教に共通する布教組織が、入会の親子関係で形成される「タテ組織」を、行政区画に沿った「ヨコ組織」へ改めたのである。結果、交成会は、広範な社会活動を可能にする近代教団へと脱皮した。この年、教団名を「立正佼成会」と改めている。
特色 第一は、在家教団である。同じ法華経系教団の創価学会が日蓮正宗という既成教団の講的な組織を形成していたのに対し、佼成会は純粋な在家組織であり、組織の中に僧侶は一人もいない。第二の特色は開放性。開祖・庭野日敬の人柄に多分に影響されていると思われるが、この教団は、上から下に至るまで楽天的で解放的。たとえば入会したとき、それまでの宗教を捨てる必要がない、と説く。逆に新人会員には、自分の檀家寺や氏神を大切にすることを指導している。こうした教団の体質が、宗教協力を推進できる土壌を形づくっているのかもしれない。特色の第三は、政治的スタンス。これだけのマンモス教団になると、当然、大票田(だいひょうでん)組織ということから、多くの政治家がアプローチしてくる。佼成会は、個人の救済と世界平和を標榜(ひょうぼう)する上で政治浄化は不可欠と考えているが、さりとて政党を結成する意志は全くない。その代わり、一党一派に偏(かたよら)せず、政策的、あるいは人物的に応援できる政治家には支援している。現在、実際に支援している議員数は、衆・参両院で200人を超え、党も自民党をはじめ複数にわたる。なお、議員を支持する佼成会の推薦基準は、①平和主義の推進、②信教の自由の堅持、③政治倫理の確立、④行政改革の推進に取り組む議員、となっている。特色の第四は、「都市型宗教」ということであろう。教勢は東京、神奈川、愛知、埼玉、千葉が最も強く、次いで静岡、福島、新潟、茨城と続く。四国、関西地域は、いわゆる既成関西系宗教の影響でやや弱い。第五の特色は、「学林」と呼ばれる3年間全寮制の幹部養成機関をもっていることだ。=以下略)
聖地 東京都杉並区和田の本部
教典 法華三部教
会員綱領 
  立正佼成会会員は
  本仏釈尊に帰依(きえ)し
  開祖さまのみ教えに基づき
  仏教の本質的な救われ方を認識し
  在家仏教の精神に立脚して
  人格完成の目的を達成するため
  信仰を基盤とした行学二道の研修に励み
  多くの人々を導きつつ自己の練成に努め
  家庭、社会、国家、世界の平和境(常寂光土)建設のため
  菩薩(ぼさつ)行に挺身(ていしん)することを期す。 
本部所在地 東京都杉並区和田2-11-1 電話03-3383-1111
(引用文献:新宗教ガイドブック)

「日本沈没まで、あと82日」

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