Monday, April 30, 2007

鎌倉新仏教⑤~日蓮宗(法華宗)

日蓮宗(にちれんしゅう)は、鎌倉時代中期に日蓮によって興(おこ)された仏教宗派。法華(ほっけ)宗とも称する。また狭義には、日蓮を宗祖とする諸宗派のうち、「宗教法人日蓮宗」を指す。宗務院を池上本門寺(東京都大田区池上)総本山を身延山久遠寺(くおんじ)に置く48本山の連合宗派で、「釈迦本仏論と一致派」、「釈迦本仏論と勝劣派」、「宗祖本仏論と勝劣派」など教義のことなる諸門流を包含する日蓮系諸宗派中の最大宗派。用語の意義として、「日蓮正宗」他教義を異とする分派を含む場合がある(創価学会・公明党)。 また、日蓮宗と歴史的に関連が深く、「南無妙法蓮華経」の題目を唱える新宗教系の信徒団体として立正佼成会・霊友会・佛所護念会教団等があり、直系とは別にこれら信徒団体在籍の400万世帯前後の信徒が存在する。

釈迦の説いた法の極意が法華経にあるという中国の天台大師の教相判釈に基づき、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳『妙法蓮華経』を所依の経典とする。日蓮は、いかなる凡夫にも「仏性」が秘められており、「南無妙法蓮華経」(なむ・みょうほうれんげきょう)と題目を唱える「唱題」の行を行えば「仏性」が顕現するという思想を説いた。宗祖日蓮以降、本仏の位置付けや、所依の妙法蓮華経に対し勝劣の別を設けるかどうかなどの点から、思想面では大別して3つの分派が成立した。
・本仏について
釈迦をもって本仏とするか、日蓮をもって本仏とするか
・一致派と勝劣派
所依の妙法蓮華経を構成する二十八品(28章)を前半の「迹門」、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとするのが勝劣派、二十八品全体を一体のものとして扱うべきとするのが一致派。
現在、日蓮宗を構成している48本山には、上記の3分派のすべてが含まれている。

明治維新直後の廃仏毀釈の後、明治政府は仏教各派に対し一宗一管長制を打ち出し、統一教団の結成を要求。日蓮系の諸門流は、1872年(明治5年)、日蓮宗を形成した。この日蓮宗は、1874年(明治7年)、教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に二分した。1876年(明治9年)、一致派は日蓮宗と改称、「釈尊を本仏とする一致派」(日向門流、日常門流など)の統一教団として再組織された。その際、日奥門流の不受不施派、不受不施講門派が独立したが、その一方で、「釈尊を本仏とする勝劣派」や「日蓮を本仏とする勝劣派」の諸派にも大同団結を働きかけた。1941年(昭和16年)、時局緊迫を理由に政府当局が教祖、宗祖や教義を同じくする諸宗教、諸宗派に統合を迫るという時勢の後押しを受け、「釈尊を本仏とする勝劣派」である顕本法華宗(日像門流)「日蓮を本仏とする勝劣派」である本門宗(日興門流)と、日蓮宗が、形式上、それぞれの宗派を解消して対等の立場で合併(三派合同)、中世期に成立していた門流の多くと、思想的潮流の相当部分を包含する新生日蓮宗が結成された。終戦により「統合を強要する圧力」が消滅したりするのに伴い、旧顕本法華宗、旧本門宗に属する本山、末寺には日蓮宗より独立するものもあったが、旧顕本法華宗の本山玄妙寺、吉美妙立寺や、旧本門宗の北山本門寺ほか3本山とそれらの末寺は引き続き、日蓮宗の内部で固有の教義を維持し続けている。国柱会や日本山妙法寺なども連合している。

仏性という用語は妙法蓮華経にはみえないが、これは仏性が初めて説かれる中期大乗経典の大般涅槃経を依経とする涅槃宗を中国天台宗が吸収したことによるものと考えられる。法華経の位置付けは、中国天台宗の流れを汲む日本の最澄の開いた比叡山延暦寺での修行の影響とされる。そもそも仏教は、開祖である釈迦の教えをその死後に弟子達が書き顕した膨大な量の経典に基づいており、一般には、それらを全て読破することは勿論、ましてや全ての意味を正確に理解することなどはきわめて困難である。中国では、さまざまな宗派が乱立していく中で、「一体どの仏典が仏教の一番肝心な教えなのか」という論点が仏教者の間で次第に唯一最大の関心事となっていったことは、ある意味、時代の必然であったと言える。天台大師智顗(ちぎ)は長年にわたる経典研究の結果、法華経(サンスクリット語名「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(「正しい法"白き蓮の花"」の意)を、釈迦が七十数歳にして到達した最高の教えであると結論付け、とりわけ鳩摩羅什(くまらじゅう)の手が入ったと言われる漢訳「妙法蓮華経」を最もすぐれた翻訳とした。こうした天台大師智顗の思想の影響を受けて日蓮は法華経を最高の経典とした、という見方が一般的である。と同時に日蓮の心理的内面に即して言えば、何よりも彼は、法華経に書かれている行者の姿と自身の人生の軌跡が符合したことに最大の根拠を見出して、上行菩薩(本佛釈尊より弘通の委嘱を受けた本化地涌菩薩の上首)としての自覚を得るに至ったのである(上行応生)。

-祖山(総本山)-
・身延山久遠寺(くおんじ、山梨県南巨摩郡身延町)(48本山の総本山)
-別格本山-
・大野山本遠寺(おおのさん・ほんのんじ、山梨県南巨摩郡身延町)
-大本山-
・小湊山誕生寺(こみなとさん・たんじょうじ、千葉県鴨川市)
・千光山清澄寺(せんこうさん・せいちょうじ、千葉県鴨川市)
・中山法華経寺(なかやまほけきょうじ、千葉県市川市)
・北山本門寺(富士山本門寺、重須本門寺:きたやまほんもんじ、静岡県富士宮市)
・池上本門寺(いけがみほんもんじ、東京都大田区)
・具足山妙顕寺(ぐそくさんみょうけんじ、京都府京都市上京区)
・大光山本圀寺(だいこうさんほんこくじ、京都府京都市山科区)

-日蓮系諸宗派-
・日蓮宗不受不施派
・不受不施日蓮講門宗
・本門法華宗
・法華宗本門流
・法華宗陣門流
・法華宗真門流
・本門佛立宗
・顕本法華宗
・旧日蓮本門宗
・日蓮正宗
・日蓮本宗
・本化日蓮宗
霊友会
立正佼成会
・佛所護念教団
・日本山妙法寺大僧伽
・国柱会
創価学会
・正信会
・冨士大石寺顕正会
・本門正宗

-関連事件・人物等-
・法華一揆 法華一揆(ほっけいっき)とは、日本の戦国時代における宗教一揆。日蓮宗側では「天文法難」と呼び、一般には「天文法乱」とも呼ばれる。当時、京都では六条本圀寺などの日蓮宗寺院を中心に、日蓮宗の信仰が町衆の大半に浸透し、極めて強い勢力を誇るようになった。1532年(天文1年)、一向宗徒の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆は細川晴元らの軍勢と手を結んで一向宗寺院を焼き討ちした。特に東山を隔てた山科盆地に、土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた、一向宗の本拠である山科本願寺はこの際の焼き討ちで灰燼に帰した。この後、日蓮宗門徒は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり、京都において栄華を誇った。しかし、日蓮宗の宗徒(松本久吉)が比叡山西塔の僧の説法を論破したのをきっかけとして、1536年(天文5年)7月、天台宗比叡山の僧兵集団が「法華一揆」撃滅へと乗り出す。延暦寺(山門)から約6万の衆徒が押し寄せ、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山はことごとく焼き払われた(天文法華の乱)。かくして、隆盛を誇った「法華一揆」は壊滅し、日蓮宗徒は洛外に追放された。以後6年間、京都において日蓮宗は禁教となる。1542年(天文11年)に京都帰還を許す再勅許が下り、後に日蓮宗寺院15本山が再建された。
・血盟団事件
・二・二六事件
・死のう団
・立憲養正会
・北一輝
(引用文献:ウィキペディア)

今回のボヤッキー 「私の祖父は、北の『国体論』などから強い影響を受けていたということであります」

「日本沈没まで、あと83日」

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