鎌倉文化はそれまで常に文化の担い手であった公家の手から、初めて武士や民衆へと裾野が広がった画期的な文化でした。この時期の代表的な文学である「平家物語」が琵琶法師(びわほうし)による平曲(へいきょく:平家物語を語る芸能)として伝承され、文字の読めない民衆にも親しまれたのはその象徴と言えます。とは言え、依然として文化の中心は貴族の手にあり、武士は貴族文化に対して剛直な武士的気風によって影響を与えるにとどまりました。

1401年に元寇(げんこう)以来途切れていた明(みん:中国)との国交を回復。中国と冊封(さくほう)の関係を結び、貿易を独占して巨利を得ると同時に、明から「日本国王源道義」の称号を得ます。自ら中国の支配下に入ったこの行為は国内で激しい非難を浴びますが、寺社や朝廷といった国内勢力ににらみを効かすために「日本国王」の称号を必要としたのでしょう。
北山文化は公家と武家の文化が融合して生まれた文化でした。南北朝の混乱期の直後だけに新たな文化を求める気概がみなぎっていた時期でもあります。猿楽能(さるがくのう)が観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)親子によって完成を見たのがこの時期です。絵画の世界では中国の影響を受けた水墨画が広まり、画僧・吉山民兆(きちざんみんちょう)、如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)といった水墨画の開拓者たちが活躍します。
足利義政が8代将軍となった頃、疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)で社会不安が生まれていました。そんな中、管領家である畠山氏と斯波氏に家督争いが起こります。さらに将軍家でも将軍継嗣(けいし)問題が起こり、義政の弟・義視(よしみ)と、義政と自分の子・義尚(よしひさ)を擁立しようとする日野富子(ひのとみこ)との間で激しい対立が生じます。これをきっかけに1467年(応仁元年)全面的な内乱へと発展し、東軍細川勝元(ほそかわかつもと)と西軍山名宗全(やまなそうぜん:出家名)とが諸大名を率いて争いました。応仁の乱と呼ばれるこの戦闘は1477年まで11年間続き、主戦場となった京都は完全に焦土(しょうど)と化します。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本)
伯耆尾高城主
山名氏重── 山名伯耆守守重(尾高城主)
∟ 岸備前守氏秀(竜王山城主)
∟ 左馬之進氏勝(鶴田高城にて戦死)
∟ 修理之進氏為
今回のボヤッキー 「関わりある邪教を振り払い、出家しようと考えるのであります」
「日本沈没まで、あと96日」
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