Friday, April 13, 2007

アジアの中の日本②

4世紀の初め、中国の国内が乱れて力が一時弱まったため朝鮮半島の動きが活発になり、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)などが割拠(かっきょ)しました。日本(倭)は半島南部の小国が分立し、政治的に不安定な位置にあった伽耶(かや)と古くから関わっていました。次いで、高句麗の南下にともなって、百済とも密接な関係を持つようになります。百済王は倭と同盟を結び高句麗に当たろうと考え、372年に「七支刀(しちしとう)」を倭に贈りました。奈良県の石上(いそのかみ)神宮に保管されている国宝・七支刀がこのとき贈られた物であるとされており、刀身の金像嵌(ぞうがん)された銘文から、倭と百済の間にはほぼ対等の同盟関係が結ばれていたものと推測されています。このような関係から倭は朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦火を交えていたようです。この戦乱は倭に多くの避難民=渡来人をもたらし、倭の文化・技術を向上させる結果となりました。

5世紀に入ると倭が再び中国に朝貢(ちょうこう)※1を開始したことが中国南朝・宋(そう)の史書「宋書(そうじょ)」倭国伝(わこくでん)に記されています。それによると約百年間に「讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)」という”倭の五王”が相次いで使者を送ったとされています。済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、武は雄略天皇に比定されていますが、讃には応神(おうじん)、仁徳(にんとく)、履中(りちゅう)天皇とする説があり、珍についても仁徳、反正(はんぜい)天皇説があり、はっきりとはしていません。

朝鮮半島から大挙渡ってきた渡来人たちは、日本に大陸のさまざまな進んだ文化や技術を伝えました。後に記された「古事記(こじき)」「日本書紀(にほんしょき)」の中の伝承では、応神天皇の時期に秦(はた)氏(新羅系)、漢(あや)氏(百済系)、西文(かわちのふみ)氏(百済系)など有力な氏族の祖先が日本に渡ったと伝えています。「漢字」(文字)が伝えられたのもこの頃で、対外的な文書の作成はもちろん、漢字の音(おん)を借りて日本語を書き表すということも行われるようになりました。雄略天皇の時代に入るとさらに百済、伽耶(かや)から集団で移住が行われ、鉄の鋳造技術や機(はた)織り、新たな農法などが技術者集団によって伝えられます。これら渡来人のもたらす技術を独占・管理することにより、大和政権の軍事力や農業生産力は格段の進歩を遂げ、5世紀の後半頃から大王(おおきみ:天皇)に絶大な権力を与え、同時に大和政権の地方進出も本格化していくことになるのです。

飛鳥(あすか)文化は6世紀後半から7世紀中期にかけて政治の中心地であった飛鳥を中心として栄えた日本初の仏教文化で、中国南北朝の影響を強く受けた造寺・造仏が行われた点に特徴があります。飛鳥文化は推古天皇とその摂政(せっしょう)・聖徳太子(しょうとくたいし)の時代に大きく花開きます。渡来人によって6世紀中頃にもたらされた仏教は、当初は彼らと関わりの深かった蘇我(そが)氏が中心となって信仰していました。しかし蘇我氏及び聖徳太子が政治の実権を握るにいたって手厚く保護され、またたく間に浸透・発展してゆきます。これは仏教文化を積極的に導入した聖徳太子の力によるところが大きく、渡来人により朝鮮半島を経由して導入される以外にも、太子が派遣した遣隋使(けんずいし)によって直接輸入されたことによりいっそう発展したことは間違いありません。飛鳥文化は当時の先進国である中国から輸入された文化を日本において消化しようとしたもので、それ以前の古墳文化とは比べものにならないほど高度で国際色に満ちた文化であると言えます。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本)

※1朝貢:外国人が来朝して貢物(みつぎもの)を奉(ささげ)ること。

「日本沈没まで、あと100日」

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