Sunday, April 15, 2007

アジアの中の日本③

奈良時代、国家体制が整い皇族・貴族の権力が増大するにつれて非常に高度な貴族文化が起こりました。これを聖武(しょうむ)天皇在位時の年号である天平(てんぴょう)から「天平文化」と呼びます。白鳳(はくほう)文化同様中国に学び、その影響が大であったことは共通していますが、天平文化においては遣唐使などによってよりいっそう大規模に、国を挙げて唐の文化の輸入が行われました。その影響は建築や彫刻、絵画などのあらゆる面に取り入れられ、白鳳文化以上に大陸的かつ仏教色が強いものとなりました。

仏教が国家によって保護された結果、僧侶は仏教研究に打ち込み「南都六宗(なんとろくしゅう)」【三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)・律(りつ)・成実(じょうじつ)・倶舎(くしゃ)】と呼ばれる学派を生みました。これら仏教研究の発展は唐の僧・鑑真(がんじん)ら外国僧を始め、唐へ留学した学問僧たちによって押し進められました。一方で当時は禁じられていた民衆への自由な布教を求める僧・行基(ぎょうき)は広く老若男女に対し教えを広め、同時に貧窮病者(ひんきゅうびょうじゃ)の救済といった社会事業に当たりました。このような仏教隆盛(りゅうせい)の中で仏教美術も発展し、薬師寺金堂の薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)、東大寺戒壇院(とうだいじかいだんいん)の四天王像など写実的で生き生きとした仏像が多数制作されます。この時代の彫刻には従来の木像や金銅像だけでなく、塑像(そぞう)や漆(うるし)を使った乾漆像(かんしつぞう)など新たな仏像製作技法が現れました。彫刻以外での唐の新しい技術を取り入れた金工(きんこう)や漆工(しっこう)、染織(せんしょく)などの技術者がさまざまな工芸作品を手がけ、正倉院(しょうそういん)宝物として現在に伝えられています。この正倉院宝物の中にはインドやイスラム諸国、東ローマの影響を受けた工芸品も多く、世界の文化が唐を通じて日本へ流入していたことを示しています。

権威をほしいままにした関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)が891年に死去すると、宇多(うだ)天皇は摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)を置かず天皇による親政を行います。同時に門閥(もんばつ)などに関係なく実力のある者を登用しました。その代表者が学者・菅原道真(すがわらみちざね)です。道真は天皇の信任を得て昇進を続け、遣唐使の廃止など国政の改革に努めました。897年に宇多天皇から醍醐(だいご)天皇へと譲位が行われたときには藤原時平(ふじわらのときひら)と共に天皇の補佐を命じられ、後に右大臣に任ぜられます。この異例の大出世がねたまれたことと、藤原氏にとってじゃまな存在であったことが道真の不運でした。901年、道真は「醍醐天皇の廃位をたくらんだ」という疑いをかけられ突然大宰府(だざいふ)へ左遷(させん)されます。これはライバルであった左大臣・藤原時平の陰謀であり、道真の一族を始めその支持者もことごとく左遷されてしまいました。道真は後に大宰府で憤死(ふんし)。以降藤原時平を始め彼の血を引く皇太子・保明(やすあき)親王などが次々に不幸な死を遂げたため、「道真の怨霊(おんりょう)のしわざ」という噂が立ちました。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本)

今回のボヤッキー 「”菅(かん)”は菅原の”菅”、ご先祖様は藤原氏の陰謀で太宰府に流された菅原道真、作州の菅家一統の一派なのであります」

「日本沈没まで、あと98日」

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