Wednesday, April 11, 2007

アジアの中の日本①

混迷の度合いを深める日本の政治・経済・外交は、内外に多くの問題を抱えている。そのせいか、日本の将来を悲観する向きが少なくない。
 「日本はあと、20年もたないのではないか」
著者も内心、思うことがある。不安の時代、人々は歴史に学ぼうと考える。未来を予知し得ないわれわれは、過去の”歴史”=経験則に学ぶほか、いかなる有効な手段も持たないのだから、歴史に学ぶこと、それ自体の意義ははかり知れないほど大きい。だが、歴史に学ぶということは、口でいうほど容易(たやす)くはなかった。 

稲の栽培はインド・アッサム地方から中国・雲南省にいたる広い地域が起源と考えられています。また短粒種(ジャポニカ米)は中国の長江(ちょうこう)中・下流の江南地方、長粒種(インディカ米)は東南アジアに起源があるとする説も発表されています。日本には野生の稲が存在しないため外部から渡来したものであることは確実であり、その伝播(でんぱ)ルートには現在3つの説があります。朝鮮半島から伝えられたとする説、長江の南から直接伝えられたとする説、そして南西諸島を通じいわゆる「海上の道」を通って伝えられたとする説です。

弥生時代は紀元前3世紀頃までとされており、前期、中期、後期に分けられています。この時期、中国大陸や朝鮮半島を通じて水田稲作農業や金属加工技術が日本列島にもたらされ、本格的な定住生活と食料の生産が開始されました。稲作に関しては、縄文時代晩期の遺跡からその痕跡(こんせき)が発見されており、かなり早くから行われていたことが判明してはいますが、本格化したのは弥生以降と考えるべきでしょう。

古代日本が小国に分立していた紀元前1世紀頃のことを知るには中国の歴史書に頼るほかありません。日本を表す「倭(わ)」が最初に登場するのは前漢の史書である「漢書(かんじょ)」の地理志(ちりし)の次のような短い記述です。
「夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中に倭人有り。分れて百余国と為(な)る。歳時(さいじ)を以(もっ)て献見(けんけん)すと云(い)ふ」
つまり、当時日本は百ほどの小国に分かれており、定期的に楽浪郡(前漢の武帝が置いた朝鮮半島の郡のひとつで、現在の平壌近辺とされる)に対して使者を送っていたというのです。

後漢が滅びると中国は「魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)」の三国時代となります。この時代を記した「三国志(さんごくし)」の中の「倭人の条」、俗(ぞく)に言う「魏志倭人伝」には2千字におよぶ日本の記述があり、ここに初めて邪馬台国(やまたいこく)が登場します。そこには、「2世紀後半に起こった倭の大乱は諸国が共同で邪馬台国に女王・卑弥呼(ひみこ)を立てたことによって治まり、30か国ほどの小国連合が生まれた。卑弥呼は呪術(じゅじゅつ)を行って人心を掌握(しょうあく)し、その弟が政治を補佐した」と記述されています。また卑弥呼は239年に魏へ使者を送り「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、銅鏡100枚を皇帝から贈られたとされており、この鏡こそ畿内(きない)を中心に発見されている「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」であるとする説があります。魏志倭人伝には卑弥呼の死後、卑弥呼の宗女(そうじょ)で13歳の壱与(いよ)が邪馬台国の女王になったと記されていますが、この後中国への使者は一度送られただけで途絶えたため以後日本に関する文献はありません。このため4世紀の日本を知る手がかりは全く存在せず、邪馬台国の行く末や、後に成立した大和政権との関係などは謎のままとなってしまいました。 
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本 加来耕三 監修  裕二 著)
 
今回のボヤッキー 「靖国へGO!」

「日本沈没まで、あと102日」

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