鎌倉新仏教⑤~日蓮宗(法華宗)
日蓮宗(にちれんしゅう)は、鎌倉時代中期に日蓮によって興(おこ)された仏教宗派。法華(ほっけ)宗とも称する。また狭義には、日蓮を宗祖とする諸宗派のうち、「宗教法人日蓮宗」を指す。宗務院を池上本門寺(東京都大田区池上)総本山を身延山久遠寺(くおんじ)に置く48本山の連合宗派で、「釈迦本仏論と一致派」、「釈迦本仏論と勝劣派」、「宗祖本仏論と勝劣派」など教義のことなる諸門流を包含する日蓮系諸宗派中の最大宗派。用語の意義として、「日蓮正宗」他教義を異とする分派を含む場合がある(創価学会・公明党)。 また、日蓮宗と歴史的に関連が深く、「南無妙法蓮華経」の題目を唱える新宗教系の信徒団体として立正佼成会・霊友会・佛所護念会教団等があり、直系とは別にこれら信徒団体在籍の400万世帯前後の信徒が存在する。
釈迦の説いた法の極意が法華経にあるという中国の天台大師の教相判釈に基づき、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳『妙法蓮華経』を所依の経典とする。日蓮は、いかなる凡夫にも「仏性」が秘められており、「南無妙法蓮華経」(なむ・みょうほうれんげきょう)と題目を唱える「唱題」の行を行えば「仏性」が顕現するという思想を説いた。宗祖日蓮以降、本仏の位置付けや、所依の妙法蓮華経に対し勝劣の別を設けるかどうかなどの点から、思想面では大別して3つの分派が成立した。
・本仏について
釈迦をもって本仏とするか、日蓮をもって本仏とするか
・一致派と勝劣派
所依の妙法蓮華経を構成する二十八品(28章)を前半の「迹門」、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとするのが勝劣派、二十八品全体を一体のものとして扱うべきとするのが一致派。
現在、日蓮宗を構成している48本山には、上記の3分派のすべてが含まれている。
明治維新直後の廃仏毀釈の後、明治政府は仏教各派に対し一宗一管長制を打ち出し、統一教団の結成を要求。日蓮系の諸門流は、1872年(明治5年)、日蓮宗を形成した。この日蓮宗は、1874年(明治7年)、教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に二分した。1876年(明治9年)、一致派は日蓮宗と改称、「釈尊を本仏とする一致派」(日向門流、日常門流など)の統一教団として再組織された。その際、日奥門流の不受不施派、不受不施講門派が独立したが、その一方で、「釈尊を本仏とする勝劣派」や「日蓮を本仏とする勝劣派」の諸派にも大同団結を働きかけた。1941年(昭和16年)、時局緊迫を理由に政府当局が教祖、宗祖や教義を同じくする諸宗教、諸宗派に統合を迫るという時勢の後押しを受け、「釈尊を本仏とする勝劣派」である顕本法華宗(日像門流)「日蓮を本仏とする勝劣派」である本門宗(日興門流)と、日蓮宗が、形式上、それぞれの宗派を解消して対等の立場で合併(三派合同)、中世期に成立していた門流の多くと、思想的潮流の相当部分を包含する新生日蓮宗が結成された。終戦により「統合を強要する圧力」が消滅したりするのに伴い、旧顕本法華宗、旧本門宗に属する本山、末寺には日蓮宗より独立するものもあったが、旧顕本法華宗の本山玄妙寺、吉美妙立寺や、旧本門宗の北山本門寺ほか3本山とそれらの末寺は引き続き、日蓮宗の内部で固有の教義を維持し続けている。国柱会や日本山妙法寺なども連合している。
仏性という用語は妙法蓮華経にはみえないが、これは仏性が初めて説かれる中期大乗経典の大般涅槃経を依経とする涅槃宗を中国天台宗が吸収したことによるものと考えられる。法華経の位置付けは、中国天台宗の流れを汲む日本の最澄の開いた比叡山延暦寺での修行の影響とされる。そもそも仏教は、開祖である釈迦の教えをその死後に弟子達が書き顕した膨大な量の経典に基づいており、一般には、それらを全て読破することは勿論、ましてや全ての意味を正確に理解することなどはきわめて困難である。中国では、さまざまな宗派が乱立していく中で、「一体どの仏典が仏教の一番肝心な教えなのか」という論点が仏教者の間で次第に唯一最大の関心事となっていったことは、ある意味、時代の必然であったと言える。天台大師智顗(ちぎ)は長年にわたる経典研究の結果、法華経(サンスクリット語名「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(「正しい法"白き蓮の花"」の意)を、釈迦が七十数歳にして到達した最高の教えであると結論付け、とりわけ鳩摩羅什(くまらじゅう)の手が入ったと言われる漢訳「妙法蓮華経」を最もすぐれた翻訳とした。こうした天台大師智顗の思想の影響を受けて日蓮は法華経を最高の経典とした、という見方が一般的である。と同時に日蓮の心理的内面に即して言えば、何よりも彼は、法華経に書かれている行者の姿と自身の人生の軌跡が符合したことに最大の根拠を見出して、上行菩薩(本佛釈尊より弘通の委嘱を受けた本化地涌菩薩の上首)としての自覚を得るに至ったのである(上行応生)。
-祖山(総本山)-
・身延山久遠寺(くおんじ、山梨県南巨摩郡身延町)(48本山の総本山)
-別格本山-
・大野山本遠寺(おおのさん・ほんのんじ、山梨県南巨摩郡身延町)
-大本山-
・小湊山誕生寺(こみなとさん・たんじょうじ、千葉県鴨川市)
・千光山清澄寺(せんこうさん・せいちょうじ、千葉県鴨川市)
・中山法華経寺(なかやまほけきょうじ、千葉県市川市)
・北山本門寺(富士山本門寺、重須本門寺:きたやまほんもんじ、静岡県富士宮市)
・池上本門寺(いけがみほんもんじ、東京都大田区)
・具足山妙顕寺(ぐそくさんみょうけんじ、京都府京都市上京区)
・大光山本圀寺(だいこうさんほんこくじ、京都府京都市山科区)
-日蓮系諸宗派-
・日蓮宗不受不施派
・不受不施日蓮講門宗
・本門法華宗
・法華宗本門流
・法華宗陣門流
・法華宗真門流
・本門佛立宗
・顕本法華宗
・旧日蓮本門宗
・日蓮正宗
・日蓮本宗
・本化日蓮宗
・霊友会
・立正佼成会
・佛所護念教団
・日本山妙法寺大僧伽
・国柱会
・創価学会
・正信会
・冨士大石寺顕正会
・本門正宗
-関連事件・人物等-
・法華一揆 法華一揆(ほっけいっき)とは、日本の戦国時代における宗教一揆。日蓮宗側では「天文法難」と呼び、一般には「天文法乱」とも呼ばれる。当時、京都では六条本圀寺などの日蓮宗寺院を中心に、日蓮宗の信仰が町衆の大半に浸透し、極めて強い勢力を誇るようになった。1532年(天文1年)、一向宗徒の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆は細川晴元らの軍勢と手を結んで一向宗寺院を焼き討ちした。特に東山を隔てた山科盆地に、土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた、一向宗の本拠である山科本願寺はこの際の焼き討ちで灰燼に帰した。この後、日蓮宗門徒は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり、京都において栄華を誇った。しかし、日蓮宗の宗徒(松本久吉)が比叡山西塔の僧の説法を論破したのをきっかけとして、1536年(天文5年)7月、天台宗比叡山の僧兵集団が「法華一揆」撃滅へと乗り出す。延暦寺(山門)から約6万の衆徒が押し寄せ、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山はことごとく焼き払われた(天文法華の乱)。かくして、隆盛を誇った「法華一揆」は壊滅し、日蓮宗徒は洛外に追放された。以後6年間、京都において日蓮宗は禁教となる。1542年(天文11年)に京都帰還を許す再勅許が下り、後に日蓮宗寺院15本山が再建された。
・血盟団事件
・二・二六事件
・死のう団
・立憲養正会
・北一輝
(引用文献:ウィキペディア)
今回のボヤッキー 「私の祖父は、北の『国体論』などから強い影響を受けていたということであります」
「日本沈没まで、あと83日」
Monday, April 30, 2007
Sunday, April 29, 2007
鎌倉新仏教④~曹洞宗・時宗
曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家の1つで、日本においては禅宗(日本達磨(だるま)宗・臨済宗・曹洞宗・黄檗(おうばく)宗・普化(ふけ)宗)の1つである。本山は永平寺(福井県)・總持(そうじ)寺(横浜市鶴見区)。臨済宗とことなり公案を用いず、ただ専(もっぱ)ら坐禅(ざぜん)する黙照(もくしょう)禅であることが特徴。
日本における曹洞宗は道元に始まる。道元は、鎌倉時代に宋に渡り、天童山で曹洞宗の長翁如浄に師事し、1226年に帰国した。道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムを否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにも拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。後に興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入寂(にゅうじゃく:死)後、次第に禅宗を標榜(ひょうぼう)するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山(けいざん)とその後席峨山韶碩(がざんじょうせき)の頃からである。臨済宗が時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられたのに対し、曹洞宗は地方豪族や一般民衆に広まった。
「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰(あお)ぎ、「即心是仏」の心をもって、主に坐禅(ざぜん)により働きかける曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派もあることはあるが少数である。また、道元の著書である『正法眼蔵』自体は仏教全般について記しており、不立文字を標榜する中国禅の立場からはやや異質である。2005年現在、3大スローガンとして「人権」「平和」「環境」を掲(かか)げる。
-大本山(根本道場)-
・永平寺 - 福井県永平寺町
・東京別院長谷寺 - 東京都港区
・名古屋別院 - 愛知県名古屋市東区代官町
・永平寺鹿児島出張所紹隆寺 - 鹿児島県姶良郡松原
・總持寺 - 横浜市鶴見区
・總持寺祖院 - 明治38年より元の地(石川県輪島市門前町)に復興
・北海道別院法源寺 - 北海道松前郡松前町松城
-大本山僧堂-
・永平寺 - 福井県永平寺町
・總持寺 - 神奈川県横浜市
-専門僧堂-
・定光寺 - 北海道釧路市
・中央寺 - 北海道札幌市
・正法寺 - 岩手県奥州市
・善宝寺 - 山形県鶴岡市
・好国寺 - 福島県福島市
・大栄寺 - 新潟県新潟市
・永平寺別院長谷寺 - 東京都港区
・西有寺 - 神奈川県横浜市
・最乗寺 - 神奈川県南足柄市
・可睡齋 - 静岡県袋井市
・豊川閣妙厳寺 - 愛知県豊川市
・大乗寺 - 石川県金沢市
・日泰寺 - 愛知県名古屋市
・総持寺祖院 - 石川県門前町
・宝慶寺 - 福井県大野市
・発心寺 - 福井県小浜市
・智源寺 - 京都府宮津市
・興聖寺 - 京都府宇治市
・瑞應寺 - 愛媛県新居浜市
・明光寺 - 福岡県福岡市
・安国寺 - 福岡県福岡市
・晧台寺 - 長崎県長崎市
-専門尼僧堂-
・愛知専門尼僧堂 - 愛知県名古屋市
・富山専門尼僧堂 - 富山県大山町
・新潟専門尼僧堂 - 新潟県湯之谷村
───────────────────────────
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期におこった浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。
他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町期までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」からきており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、寛永10年(1633年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表われとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。また浄土真宗では信心のみを重視し、信じるだけで往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた。それに対して時宗の場合には、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
(引用文献:ウィキペディア)
「日本沈没まで、あと84日」
曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家の1つで、日本においては禅宗(日本達磨(だるま)宗・臨済宗・曹洞宗・黄檗(おうばく)宗・普化(ふけ)宗)の1つである。本山は永平寺(福井県)・總持(そうじ)寺(横浜市鶴見区)。臨済宗とことなり公案を用いず、ただ専(もっぱ)ら坐禅(ざぜん)する黙照(もくしょう)禅であることが特徴。
日本における曹洞宗は道元に始まる。道元は、鎌倉時代に宋に渡り、天童山で曹洞宗の長翁如浄に師事し、1226年に帰国した。道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムを否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにも拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。後に興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入寂(にゅうじゃく:死)後、次第に禅宗を標榜(ひょうぼう)するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山(けいざん)とその後席峨山韶碩(がざんじょうせき)の頃からである。臨済宗が時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられたのに対し、曹洞宗は地方豪族や一般民衆に広まった。
「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰(あお)ぎ、「即心是仏」の心をもって、主に坐禅(ざぜん)により働きかける曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派もあることはあるが少数である。また、道元の著書である『正法眼蔵』自体は仏教全般について記しており、不立文字を標榜する中国禅の立場からはやや異質である。2005年現在、3大スローガンとして「人権」「平和」「環境」を掲(かか)げる。
-大本山(根本道場)-
・永平寺 - 福井県永平寺町
・東京別院長谷寺 - 東京都港区
・名古屋別院 - 愛知県名古屋市東区代官町
・永平寺鹿児島出張所紹隆寺 - 鹿児島県姶良郡松原
・總持寺 - 横浜市鶴見区
・總持寺祖院 - 明治38年より元の地(石川県輪島市門前町)に復興
・北海道別院法源寺 - 北海道松前郡松前町松城
-大本山僧堂-
・永平寺 - 福井県永平寺町
・總持寺 - 神奈川県横浜市
-専門僧堂-
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・中央寺 - 北海道札幌市
・正法寺 - 岩手県奥州市
・善宝寺 - 山形県鶴岡市
・好国寺 - 福島県福島市
・大栄寺 - 新潟県新潟市
・永平寺別院長谷寺 - 東京都港区
・西有寺 - 神奈川県横浜市
・最乗寺 - 神奈川県南足柄市
・可睡齋 - 静岡県袋井市
・豊川閣妙厳寺 - 愛知県豊川市
・大乗寺 - 石川県金沢市
・日泰寺 - 愛知県名古屋市
・総持寺祖院 - 石川県門前町
・宝慶寺 - 福井県大野市
・発心寺 - 福井県小浜市
・智源寺 - 京都府宮津市
・興聖寺 - 京都府宇治市
・瑞應寺 - 愛媛県新居浜市
・明光寺 - 福岡県福岡市
・安国寺 - 福岡県福岡市
・晧台寺 - 長崎県長崎市
-専門尼僧堂-
・愛知専門尼僧堂 - 愛知県名古屋市
・富山専門尼僧堂 - 富山県大山町
・新潟専門尼僧堂 - 新潟県湯之谷村
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時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期におこった浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。
他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町期までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」からきており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、寛永10年(1633年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表われとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。また浄土真宗では信心のみを重視し、信じるだけで往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた。それに対して時宗の場合には、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
(引用文献:ウィキペディア)
「日本沈没まで、あと84日」
Saturday, April 28, 2007
鎌倉新仏教③~臨済宗
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)のひとつで、唐の臨済義玄(?-867年)を宗祖とする。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。公案に参究することにより見性しようとする看話禅(かんなぜん)で、ただ座禅する曹洞宗の黙照禅とはこの点が異なる。
宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、禅宗の最高峰を極めた臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。
一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねながら悟ってきたのである。しかし宋代以降、悟りを得るための多くの技法が考案されてきた。坐禅(瞑想とは異なる)、公案(知的な理解を超えた話を理解すること)、読経(お教を読むこと)、作務(普段の作業)などの修行を既に悟りを得た禅師の元ですることで、悟りが得られるようにメソッド化されてきた。悟りは、ロウソクの火が、消えているロウソクに伝わるように(伝灯)、師から弟子へと伝わるとされる。それは言葉(ロゴス)による伝達ではない。それゆえに正しい禅師を選ぶことが肝心とされる。それは悟りを得ている事だけではなく、自分の個性に適合している禅師を選ぶという意味もある。しかしながら、悟りを得た禅師が指導して悟らせるのではない。師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、その香りを味わうことができる。芸術以外にも、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、悟りの世界を味わうという手段も生まれている。それは知的な理解ではない。
宋代以降公案体系がまとめられ、擬似的かもしれないが更に多くの悟りを起こすことを可能にした。公案とは、主に師と弟子の間の会話で構成され、弟子が悟りを得る瞬間の事実を伝える話が多い。また公案とは論理的、知的な理解を受け付ける事が出来ない、論理を超えた話であり、考えることではなく、公案になり切ることを通してのみ知ることができる。これらの公案を弟子を導く手順としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案により構成される。公案体系は師の家風によって異なる。
・「犬に仏性はありますか?」「無(む)」
この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という知識がある。
・「片手の拍手の音」
弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。知的な理解では片手では拍手はできず音はしない。
-建仁寺派-
・建仁寺(京都府)
-東福寺派-
・東福寺(京都府)
-建長寺派-
・建長寺(神奈川県鎌倉市)
-円覚寺派-
・円覚寺(神奈川県鎌倉市)
-南禅寺派-
・南禅寺(京都府)
-国泰寺派-
・国泰寺(富山県高岡市)
・全生庵(東京都台東区)
・薬勝寺(富山県砺波市)
-大徳寺派-
・大徳寺(京都府)
-向嶽寺派-
・向嶽寺(山梨県塩山市)
-妙心寺派-
・妙心寺(京都府)
・退蔵院(京都府)
・瑞巌寺(宮城県松島町)
-天竜寺派-
・天竜寺(京都府)
-永源寺派-
・永源寺(滋賀県東近江市)
-方広寺派-
・方広寺(静岡県引佐町)
-相国寺派-
・相国寺(京都府)
-佛通寺派-
・佛通寺(広島県三原市)
(引用文献:ウィキペディア)
「日本沈没まで、あと85日」
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)のひとつで、唐の臨済義玄(?-867年)を宗祖とする。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。公案に参究することにより見性しようとする看話禅(かんなぜん)で、ただ座禅する曹洞宗の黙照禅とはこの点が異なる。
宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、禅宗の最高峰を極めた臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。
一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねながら悟ってきたのである。しかし宋代以降、悟りを得るための多くの技法が考案されてきた。坐禅(瞑想とは異なる)、公案(知的な理解を超えた話を理解すること)、読経(お教を読むこと)、作務(普段の作業)などの修行を既に悟りを得た禅師の元ですることで、悟りが得られるようにメソッド化されてきた。悟りは、ロウソクの火が、消えているロウソクに伝わるように(伝灯)、師から弟子へと伝わるとされる。それは言葉(ロゴス)による伝達ではない。それゆえに正しい禅師を選ぶことが肝心とされる。それは悟りを得ている事だけではなく、自分の個性に適合している禅師を選ぶという意味もある。しかしながら、悟りを得た禅師が指導して悟らせるのではない。師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、その香りを味わうことができる。芸術以外にも、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、悟りの世界を味わうという手段も生まれている。それは知的な理解ではない。
宋代以降公案体系がまとめられ、擬似的かもしれないが更に多くの悟りを起こすことを可能にした。公案とは、主に師と弟子の間の会話で構成され、弟子が悟りを得る瞬間の事実を伝える話が多い。また公案とは論理的、知的な理解を受け付ける事が出来ない、論理を超えた話であり、考えることではなく、公案になり切ることを通してのみ知ることができる。これらの公案を弟子を導く手順としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案により構成される。公案体系は師の家風によって異なる。
・「犬に仏性はありますか?」「無(む)」
この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という知識がある。
・「片手の拍手の音」
弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。知的な理解では片手では拍手はできず音はしない。
-建仁寺派-
・建仁寺(京都府)
-東福寺派-
・東福寺(京都府)
-建長寺派-
・建長寺(神奈川県鎌倉市)
-円覚寺派-
・円覚寺(神奈川県鎌倉市)
-南禅寺派-
・南禅寺(京都府)
-国泰寺派-
・国泰寺(富山県高岡市)
・全生庵(東京都台東区)
・薬勝寺(富山県砺波市)
-大徳寺派-
・大徳寺(京都府)
-向嶽寺派-
・向嶽寺(山梨県塩山市)
-妙心寺派-
・妙心寺(京都府)
・退蔵院(京都府)
・瑞巌寺(宮城県松島町)
-天竜寺派-
・天竜寺(京都府)
-永源寺派-
・永源寺(滋賀県東近江市)
-方広寺派-
・方広寺(静岡県引佐町)
-相国寺派-
・相国寺(京都府)
-佛通寺派-
・佛通寺(広島県三原市)
(引用文献:ウィキペディア)
「日本沈没まで、あと85日」
Friday, April 27, 2007
鎌倉新仏教②~浄土真宗
浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、鎌倉時代初期、法然(ほうねん)の弟子親鸞(しんらん:1173~1262)が、法然の教え(浄土宗)を継承発展させ、後に教団として自立した仏教の日本独自の宗派。宗派名の成り立ちの歴史的経緯から、現在、同宗に属する宗派の多くが宗派名としては真宗を名乗る。一向宗(いっこうしゅう)、門徒宗(もんとしゅう)とも通称される。本尊は阿弥陀如来一仏。所依の経典は浄土三部経(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)。歴史的経緯により、現在、真宗教団連合加盟の10派ほか諸派に分かれているが、宗全体としては、わが国の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22,000ヶ寺)・信徒を擁(よう)する。
念仏(南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ、なもあみだぶつ(本願寺派))を唱えること(称名念仏)を通して、阿弥陀如来の慈悲を信知せしめられ、悪人を含む全ての人が浄土(じょうど)へ往生(おうじょう)し成仏(じょうぶつ)するという絶対他力への信順を往生成仏の正因とする。ここから、今この時にも阿弥陀如来の本願力は私たちに回向(えこう)されていて、救われている(現生正定聚:げんしょうしょうじょうじゅ)とする。この根拠が、無量寿経(むりょうじゅきょう)に説かれる阿弥陀如来の四十八願(しじゅうはちがん)、殊(こと)にそのうちの「王本願」といわれる第十八願(選択本願)である。ちなみに阿弥陀如来は、西方極楽浄土を仏国土とする仏である。
親鸞は、インドの竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん→世親(せしん))から中国の曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導を経て、日本の源信(恵心僧都:僧侶)・源空(法然)へと継承される他力念仏の系譜をふまえ、法然の教えを真宗(真の宗教)と呼んで継承した。法然往生(没)後の弟子たちによる本願・念仏に対する解釈の違いから、浄土宗西山派などからの批判を受けたが、親鸞としては法然と同じ流罪(るざい)を経験した自分こそ、法然の真の継承者という自負があったと言われる。しかし形としては浄土宗からの離脱を余儀なくされ、当時の仏教界においては無名の存在であった。越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞門徒が形成され親鸞の往生(没)後一派となっていく。親鸞の教えを継ぐ者には自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。
他の仏教宗派に対する浄土真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点にある(明治まで、妻帯の許される仏教宗派は浄土真宗のみであった)。そもそもは、一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏であると、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子を設けたことに由来する。そのため、浄土真宗には法脈(師弟関係)と血脈の2つの系譜が存在する。与えられる名前も戒名(かいみょう)ではなく法名(ほうみょう)と言う。
-真宗十派(真宗教団連合)-
浄土真宗本願寺派
・本願寺(通称 西本願寺)(京都市下京区) 末寺数 10,497
真宗大谷派
・真宗本廟(通称 東本願寺)(京都市下京区) 末寺数 9,804
真宗高田派
・専修寺(三重県津市) 末寺数 643
真宗興正派
・興正寺(京都市下京区) 末寺数 486
真宗佛光寺派
・佛光寺(京都市下京区) 末寺数 390
真宗木辺派
・錦織寺(滋賀県野洲市) 末寺数 250
真宗誠照寺派
・誠照寺(福井県鯖江市) 末寺数 80
真宗出雲路派
・毫摂寺(福井県越前市) 末寺数 67
真宗三門徒派
・専照寺(福井県福井市) 末寺数 41
真宗山元派
・證城寺(福井県鯖江市) 末寺数 21
-その他の宗派-
浄土真宗東本願寺派
・東本願寺(東京都台東区) 末寺・崇敬寺院数 324
真宗浄興寺派
・浄興寺(新潟県上越市) 末寺数 12
原始真宗
・願入寺(茨城県東茨城郡)
浄土真宗別格本山(単立)
・西念寺(茨城県笠間市)
弘願真宗
・聖玄寺(福井県福井市) 末寺数 8
淨土真信宗浄光寺派(浄土真宗淨光寺派)
・浄光寺(福岡市東区) 末寺数 5
真宗北本願寺派
・北本願寺(北海道小樽市) 末寺数 3
-浄土真宗系新宗教-
・浄土真宗親鸞会
・浄土真宗一の会
・カヤカベ教
・仏眼宗
・真宗長生派
・浄土真宗同朋教団
・仏教真宗
・門徒宗一味派
(引用文献:ウィキペディア)
「日本沈没まで、あと86日」
浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、鎌倉時代初期、法然(ほうねん)の弟子親鸞(しんらん:1173~1262)が、法然の教え(浄土宗)を継承発展させ、後に教団として自立した仏教の日本独自の宗派。宗派名の成り立ちの歴史的経緯から、現在、同宗に属する宗派の多くが宗派名としては真宗を名乗る。一向宗(いっこうしゅう)、門徒宗(もんとしゅう)とも通称される。本尊は阿弥陀如来一仏。所依の経典は浄土三部経(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)。歴史的経緯により、現在、真宗教団連合加盟の10派ほか諸派に分かれているが、宗全体としては、わが国の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22,000ヶ寺)・信徒を擁(よう)する。
念仏(南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ、なもあみだぶつ(本願寺派))を唱えること(称名念仏)を通して、阿弥陀如来の慈悲を信知せしめられ、悪人を含む全ての人が浄土(じょうど)へ往生(おうじょう)し成仏(じょうぶつ)するという絶対他力への信順を往生成仏の正因とする。ここから、今この時にも阿弥陀如来の本願力は私たちに回向(えこう)されていて、救われている(現生正定聚:げんしょうしょうじょうじゅ)とする。この根拠が、無量寿経(むりょうじゅきょう)に説かれる阿弥陀如来の四十八願(しじゅうはちがん)、殊(こと)にそのうちの「王本願」といわれる第十八願(選択本願)である。ちなみに阿弥陀如来は、西方極楽浄土を仏国土とする仏である。
親鸞は、インドの竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん→世親(せしん))から中国の曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導を経て、日本の源信(恵心僧都:僧侶)・源空(法然)へと継承される他力念仏の系譜をふまえ、法然の教えを真宗(真の宗教)と呼んで継承した。法然往生(没)後の弟子たちによる本願・念仏に対する解釈の違いから、浄土宗西山派などからの批判を受けたが、親鸞としては法然と同じ流罪(るざい)を経験した自分こそ、法然の真の継承者という自負があったと言われる。しかし形としては浄土宗からの離脱を余儀なくされ、当時の仏教界においては無名の存在であった。越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞門徒が形成され親鸞の往生(没)後一派となっていく。親鸞の教えを継ぐ者には自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。
他の仏教宗派に対する浄土真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点にある(明治まで、妻帯の許される仏教宗派は浄土真宗のみであった)。そもそもは、一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏であると、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子を設けたことに由来する。そのため、浄土真宗には法脈(師弟関係)と血脈の2つの系譜が存在する。与えられる名前も戒名(かいみょう)ではなく法名(ほうみょう)と言う。
-真宗十派(真宗教団連合)-
浄土真宗本願寺派
・本願寺(通称 西本願寺)(京都市下京区) 末寺数 10,497
真宗大谷派
・真宗本廟(通称 東本願寺)(京都市下京区) 末寺数 9,804
真宗高田派
・専修寺(三重県津市) 末寺数 643
真宗興正派
・興正寺(京都市下京区) 末寺数 486
真宗佛光寺派
・佛光寺(京都市下京区) 末寺数 390
真宗木辺派
・錦織寺(滋賀県野洲市) 末寺数 250
真宗誠照寺派
・誠照寺(福井県鯖江市) 末寺数 80
真宗出雲路派
・毫摂寺(福井県越前市) 末寺数 67
真宗三門徒派
・専照寺(福井県福井市) 末寺数 41
真宗山元派
・證城寺(福井県鯖江市) 末寺数 21
-その他の宗派-
浄土真宗東本願寺派
・東本願寺(東京都台東区) 末寺・崇敬寺院数 324
真宗浄興寺派
・浄興寺(新潟県上越市) 末寺数 12
原始真宗
・願入寺(茨城県東茨城郡)
浄土真宗別格本山(単立)
・西念寺(茨城県笠間市)
弘願真宗
・聖玄寺(福井県福井市) 末寺数 8
淨土真信宗浄光寺派(浄土真宗淨光寺派)
・浄光寺(福岡市東区) 末寺数 5
真宗北本願寺派
・北本願寺(北海道小樽市) 末寺数 3
-浄土真宗系新宗教-
・浄土真宗親鸞会
・浄土真宗一の会
・カヤカベ教
・仏眼宗
・真宗長生派
・浄土真宗同朋教団
・仏教真宗
・門徒宗一味派
(引用文献:ウィキペディア)
「日本沈没まで、あと86日」
Thursday, April 26, 2007
鎌倉新仏教①~浄土宗
鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)とは、鎌倉時代に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派の事。具体的には浄土宗(法然)・浄土真宗(親鸞)・臨済宗(栄西)・曹洞宗(道元)・時宗(一遍)・法華宗(日蓮宗)を指す(ただし、浄土宗の成立は厳密に言えば、平安時代末期の事である)。また、旧仏教の中にも新仏教に触発されて新しい動きが生まれた。華厳宗(けごんしゅう)の明恵(みょうえ)、凝然(ぎょうねん)、法相宗(ほっそうしゅう)の貞慶(じょうけい)、真言宗(しんごんしゅう)の覚鑁(かくばん)、あるいは真言律宗(しんごんりっしゅう)を開いた叡尊(えいそん)などである。これ等の動きを鎌倉旧仏教と呼ぶことがある。鎌倉時代は宗教が非常にダイナミックな動きを見せた時代である。
-仏教 基本教義-
○縁起(えんぎ) 原意は、「因縁生起」の略と考えられ、「他との関係が縁となって生起すること」の意味で、関係の中の生起の意味である。
○四諦(したい)
・人生は苦であるという真理 【苦諦(くたい)】
・その苦の原因は人間の執着にあるという真理 【集諦(じったい)】
・この苦を滅した境地が悟りであるという真理 【滅諦(めったい)】
・その悟りに到達する方法は八正道であるという真理 【道諦(どうたい)】
前2者は流転の因果を示すものであり、後2者は悟りの因果を示すものである。
○八正道(はっしょうどう)
・正見 われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。
・正思惟 財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる、人間の日常生活の否定であり、それを思惟することが正思惟である。この五欲の心の否定は、具体的には無瞋の思惟、無害の思惟である。いわば瞋恚の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、これを捨てることを思惟するのである。自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定するのである。
・正語 妄語を離れ、綺語を離れ、両舌を離れ、悪口を離れることである。
・正業 殺生を離れ、不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。
この二つは正思惟されたものの実践である。妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重である。
・正命 まちがった生活を捨てて正しい生活を営むことであり、常に無明を滅する方向に動いてゆく生活である。したがって、それは人間の日常性に根差している価値を追求する生活を否定するものである。この点、「正命」はこのようにすべき生活として求められつつあるものである。
・正精進 この「正命」の生活は、ひたすらな努力の中にのみ得られる。このひたむきな努力の生活、それが「正精進」である。「未生の悪、不善法の不生のために欲を生じ、勤め精進し、心を摂し努力する」「常に行じて退せざるを正精進という」というのは、これをいう。これが、やがて四正勤(ししょうごん)として、すでに起こった悪不善を断ずる努力、未来に起こる悪不善を生こらないようにする努力、過去の善法の増長への努力として説かれるようになった。
・正念 このような「正精進」に示される現前の事実的価値追求への否定の努力は、主として過去の集約として与えられた、身体的なものに対する否定である。このような立場から「身にありて身を観察して住し、熱心にして正しく理解し、精神を集中し、明瞭な心と精神集中と、専一なる心とをもって、如実に身体を知る」と説かれるのが「正念」である。
・正定 現にあるものとしてでなく、あるべきものとしての「正命」が実現されるのは、身体における日常的なものが克服されることによってである。それが「身の観察であり、精神を集中して如実に知る」ことである限り、真に身体的なものの克服とはなりえないで、やはりイデア的であることを免れない。これを身体的なものとして、生活自身において克服するものそれが「正定」である。
このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となる。これを人間の実践として、中道であると説くのである。
○三法印(さんぼういん) 仏教の教えを特徴づける三つの考え。仏教自身と他の教えとの区別を明らかにすると同時に、自身の特徴を示そうとして「諸行無常印」「諸法無我印」「涅槃寂静印」の三法印を説いている。
○四法印(しほういん) 仏教の教えを特徴づける三つの考えである三法印に「一切皆苦印」を加えたものである。四法印とするのが『瑜伽師地論 』の四法嗢拕南説である。「一切諸行皆悉是苦」と説かれている。
○諸行無常(しょぎょうむじょう) 現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。
○諸法無我(しょぎょうむが) 有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我(が)がないことをいう。諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。我とは「常一主宰」のものと言われる。常とは常住、一とは単独、主宰とは支配することである。ゆえに、この「我」は常住である単独者として何かを支配するものをいう。
○涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) 仏教用語であり、三法印・四法印の一つとして、仏教が他の教えと根本的に違うことを示している。煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということ。諸行無常、諸法無我の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。無常と無我とを自覚して、それによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地である。
○一切皆苦(いっさいかいく) 阿毘達磨(アビダルマ)文献によれば、苦は「逼悩」の義と定義される。「圧迫して(○○○○○に)悩まされる」という意である。この苦には二つの用法がある。一つは楽や不苦不楽に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれるときの苦である。前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦というのは実にこの意である。
浄土宗(じょうどしゅう)は、法然上人が開祖である、浄土宗専修念仏を宗旨とする日本の仏教宗派の一つ。本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀)。勢至丸(後の法然)は父の漆間時国の遺言通り僧侶になる事を誓う。比叡山に登る前、叔父の菩提寺という寺院に行った。そこの住職の観覚上人の下で勉学に励んだ。しかし、4年の歳月が過ぎ師僧の観覚上人から「お前に教える事はもう何もない、比叡山に行ってはどうか」と言われ、勢至丸は比叡山へわずか13歳(1145年)で行く事となる。その後、叡山根本中堂に於いて源光上人より学ぶ。また、源光上人が勉学を教えられなくなり、皇円阿闍梨の下で学ぶ。ここで勢至丸・15歳(1147年)、正式に得度する。勢至丸・18歳(1150年)の時、黒谷の別所に移り慈眼房叡空上人に師事して法然房源空(源光・叡空より一字ずつ名を貰った)と名のる。承安5年(1175年)43歳の時、善導大師の観無量寿経疏(観経疏)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを弘めた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。
その観経疏にある立教に至った文字は、『一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である』
一心専念弥陀名号
行住坐臥不問時節久近
念念不捨者是名正定之業
順彼佛願故
-総本山-
・鎮西派
華頂山知恩院
・西山派
東山禅林寺(永観堂)(禅林寺派)
粟生光明寺(西山浄土宗)
京極誓願寺(深草派)
-鎮西七大本山-
・三縁山増上寺(東京都)
・紫雲山金戒光明寺(京都市)
・天照山光明寺(鎌倉市)
・百万遍知恩寺(京都市)
・井上山善導寺(福岡市)
・善光寺大本願(長野市)
・善光寺(長野市)
・清浄華院(京都市)
(引用文献:ウィキペディア)
「日本沈没まで、あと87日」
鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)とは、鎌倉時代に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派の事。具体的には浄土宗(法然)・浄土真宗(親鸞)・臨済宗(栄西)・曹洞宗(道元)・時宗(一遍)・法華宗(日蓮宗)を指す(ただし、浄土宗の成立は厳密に言えば、平安時代末期の事である)。また、旧仏教の中にも新仏教に触発されて新しい動きが生まれた。華厳宗(けごんしゅう)の明恵(みょうえ)、凝然(ぎょうねん)、法相宗(ほっそうしゅう)の貞慶(じょうけい)、真言宗(しんごんしゅう)の覚鑁(かくばん)、あるいは真言律宗(しんごんりっしゅう)を開いた叡尊(えいそん)などである。これ等の動きを鎌倉旧仏教と呼ぶことがある。鎌倉時代は宗教が非常にダイナミックな動きを見せた時代である。
-仏教 基本教義-
○縁起(えんぎ) 原意は、「因縁生起」の略と考えられ、「他との関係が縁となって生起すること」の意味で、関係の中の生起の意味である。
○四諦(したい)
・人生は苦であるという真理 【苦諦(くたい)】
・その苦の原因は人間の執着にあるという真理 【集諦(じったい)】
・この苦を滅した境地が悟りであるという真理 【滅諦(めったい)】
・その悟りに到達する方法は八正道であるという真理 【道諦(どうたい)】
前2者は流転の因果を示すものであり、後2者は悟りの因果を示すものである。
○八正道(はっしょうどう)
・正見 われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。
・正思惟 財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる、人間の日常生活の否定であり、それを思惟することが正思惟である。この五欲の心の否定は、具体的には無瞋の思惟、無害の思惟である。いわば瞋恚の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、これを捨てることを思惟するのである。自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定するのである。
・正語 妄語を離れ、綺語を離れ、両舌を離れ、悪口を離れることである。
・正業 殺生を離れ、不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。
この二つは正思惟されたものの実践である。妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重である。
・正命 まちがった生活を捨てて正しい生活を営むことであり、常に無明を滅する方向に動いてゆく生活である。したがって、それは人間の日常性に根差している価値を追求する生活を否定するものである。この点、「正命」はこのようにすべき生活として求められつつあるものである。
・正精進 この「正命」の生活は、ひたすらな努力の中にのみ得られる。このひたむきな努力の生活、それが「正精進」である。「未生の悪、不善法の不生のために欲を生じ、勤め精進し、心を摂し努力する」「常に行じて退せざるを正精進という」というのは、これをいう。これが、やがて四正勤(ししょうごん)として、すでに起こった悪不善を断ずる努力、未来に起こる悪不善を生こらないようにする努力、過去の善法の増長への努力として説かれるようになった。
・正念 このような「正精進」に示される現前の事実的価値追求への否定の努力は、主として過去の集約として与えられた、身体的なものに対する否定である。このような立場から「身にありて身を観察して住し、熱心にして正しく理解し、精神を集中し、明瞭な心と精神集中と、専一なる心とをもって、如実に身体を知る」と説かれるのが「正念」である。
・正定 現にあるものとしてでなく、あるべきものとしての「正命」が実現されるのは、身体における日常的なものが克服されることによってである。それが「身の観察であり、精神を集中して如実に知る」ことである限り、真に身体的なものの克服とはなりえないで、やはりイデア的であることを免れない。これを身体的なものとして、生活自身において克服するものそれが「正定」である。
このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となる。これを人間の実践として、中道であると説くのである。
○三法印(さんぼういん) 仏教の教えを特徴づける三つの考え。仏教自身と他の教えとの区別を明らかにすると同時に、自身の特徴を示そうとして「諸行無常印」「諸法無我印」「涅槃寂静印」の三法印を説いている。
○四法印(しほういん) 仏教の教えを特徴づける三つの考えである三法印に「一切皆苦印」を加えたものである。四法印とするのが『瑜伽師地論 』の四法嗢拕南説である。「一切諸行皆悉是苦」と説かれている。
○諸行無常(しょぎょうむじょう) 現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。
○諸法無我(しょぎょうむが) 有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我(が)がないことをいう。諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。我とは「常一主宰」のものと言われる。常とは常住、一とは単独、主宰とは支配することである。ゆえに、この「我」は常住である単独者として何かを支配するものをいう。
○涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) 仏教用語であり、三法印・四法印の一つとして、仏教が他の教えと根本的に違うことを示している。煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということ。諸行無常、諸法無我の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。無常と無我とを自覚して、それによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地である。
○一切皆苦(いっさいかいく) 阿毘達磨(アビダルマ)文献によれば、苦は「逼悩」の義と定義される。「圧迫して(○○○○○に)悩まされる」という意である。この苦には二つの用法がある。一つは楽や不苦不楽に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれるときの苦である。前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦というのは実にこの意である。
浄土宗(じょうどしゅう)は、法然上人が開祖である、浄土宗専修念仏を宗旨とする日本の仏教宗派の一つ。本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀)。勢至丸(後の法然)は父の漆間時国の遺言通り僧侶になる事を誓う。比叡山に登る前、叔父の菩提寺という寺院に行った。そこの住職の観覚上人の下で勉学に励んだ。しかし、4年の歳月が過ぎ師僧の観覚上人から「お前に教える事はもう何もない、比叡山に行ってはどうか」と言われ、勢至丸は比叡山へわずか13歳(1145年)で行く事となる。その後、叡山根本中堂に於いて源光上人より学ぶ。また、源光上人が勉学を教えられなくなり、皇円阿闍梨の下で学ぶ。ここで勢至丸・15歳(1147年)、正式に得度する。勢至丸・18歳(1150年)の時、黒谷の別所に移り慈眼房叡空上人に師事して法然房源空(源光・叡空より一字ずつ名を貰った)と名のる。承安5年(1175年)43歳の時、善導大師の観無量寿経疏(観経疏)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを弘めた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。
その観経疏にある立教に至った文字は、『一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である』
一心専念弥陀名号
行住坐臥不問時節久近
念念不捨者是名正定之業
順彼佛願故
-総本山-
・鎮西派
華頂山知恩院
・西山派
東山禅林寺(永観堂)(禅林寺派)
粟生光明寺(西山浄土宗)
京極誓願寺(深草派)
-鎮西七大本山-
・三縁山増上寺(東京都)
・紫雲山金戒光明寺(京都市)
・天照山光明寺(鎌倉市)
・百万遍知恩寺(京都市)
・井上山善導寺(福岡市)
・善光寺大本願(長野市)
・善光寺(長野市)
・清浄華院(京都市)
(引用文献:ウィキペディア)
「日本沈没まで、あと87日」
Wednesday, April 25, 2007
宗教を考える~新興宗教⑥
【崇教真光(すうきょうまひかり)】
●創始者 岡田光玉
●代表者 岡田甲子教之主
●崇拝対象 御親元主真光大御神(みおやもとすまひかりおおみかみ)
●沿革 創始者・岡田光玉の養女・岡田聖珠(甲子と改名)は、昭和4年12月生まれで、52年4月、世界真光文明教団から分派独立して設立した。翌年の53年6月、宗教法人の認証を得ている。
●特色 教えは世界真光文明教団とほぼ同じで、手かざしによって、仕事の能率が上がり、病気が治る、と説く。また、この手かざしは、誰でもが身につけることができるとし、全国の教団各道場で初心者用に「研修会」が開かれている。研修の法則や先祖供養の大切さなどを学び、最後の3日目に「御み霊(おみたま)」を受け、手かざしの方法を学ぶ。59年11月、岐阜県飛騨の高山に総工費450億円を費やして世界総本山「モトスオホカムノミヤ」を建設した。敷地面積約2万平方㍍、地下1階、地上3階の黄金色をした神殿で、この地に建てたのは、天地創造の神から、「世界救世の基地、世界総本山を天越根中日玉国(あまこしねなかひだまこく)高山の地に御建立せよ」とのお告げがあったからだという。なお、同教団は、地球は元ひとつ、人類は元ひとつ、万教の元ひとつの理想で世界恒久平和を訴えており、さらには、世界の5大宗教を統轄する使命をおびた教団であると自負している。教義として、仏教、キリスト教、神道(しんとう)、回教、儒教、道教などの大元を解くとしている。しかし、他の宗教に対する否定的な教義も多く、例えば、釈尊が弟子に仏教とは如何なる教えかと質問されたのに対し「真如の教えなり」と答えたとするエピソードを紹介し、その返答を教団の教義では「真如」とは「真の如きもの」の意と解釈し、仏教の教えは「仮の教え」と見なしている(『御聖言』)。豆まきや神道のしめ縄についても正神の神に対する呪術として否定している(『陽光子祈言集』)。また、教団は「陽光農法」と呼ばれる農作物の生産方法を提唱し、「陽光農法」に基づく「陽光農園」や家庭菜園の推進を行なっている。「陽光農法」は「手かざし」「想念」「言霊」「有機堆肥」の4項目を基本とし、大地の浄化や非常用食料の確保などを目的としている。信徒が経営する企業(ミズラホ、ゆうき)が陽光農法で栽培された農作物の販売を行なっている。信徒は毎月500円(日本国外でもおおよそ同じ金額)の『霊線保持御礼(れいせんほじおんれい)』を納める必要があり、5年間の未納がある場合は除名となる。但し、『霊線保持御礼』未納の信徒がいる場合、他の信徒によって代納が行われる場合が多い。信徒の退会は自由とされているが、所属道場に退会希望を申し出ても「御み霊」を預かるのみで保留となる場合や、他の信徒が説得の為に自宅への電話や訪問を行う場合もある。真光隊の最高幹部である総裁は教え主が兼任することが定められている。また、真光隊では隊員に総裁を『総裁教え主様』と呼ばせ、絶対視・神聖視させるように教育されている。最敬礼は天皇・皇后(こうごう)・皇太子と教え主・教え主代理にのみ行われる。また、崇教真光の教義では教え主は全人類を導く主とされていることから、教団内では、国王・王族や大統領・首相は『総裁教え主様』よりも下級の存在であると捉えられている。
一方、政治家との関係も親密で、教え主である岡田恵珠が1984年に藤●●●官房長官の案内で総理官邸を訪問し(『真光』誌260号)、1986年7月29日には村▲▲▲参院議員の案内で総理公邸を訪問して、いずれも中■■■■首相と面会している(新聞各紙)。その後、38周年秋季大祭(1997年)に刑事事件有罪となった藤●●●(リクルート事件)・村▲▲▲(KSD事件)といった議員を来賓に呼び、2000年12月にはKSD事件で翌月に逮捕された小×××の支持署名を集め、その後『崇教真光』誌528号で藤●●●からの投書を掲載している。そして、2004年1月16日に開催された自由民主党第70回定期党大会の席上では、友好団体として他の宗教団体と共に表彰を受けている。小★★★★は内閣総理大臣に就任した2001年以降自由民主党総裁として毎年秋季大祭へ祝電を送っており、43周年秋季大祭(2002年)では中@@@を自身の代理として出席させている。安◆◆◆も47周年秋季大祭(2006年)に自由民主党総裁として祝電を送っている。秋季大祭の来賓の中でも石●●●は少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露した(『崇教真光』誌平成13年12月号)。45周年秋季大祭(2004年)では自身が組み手(信徒)であることを明らかにし、組み手としての立場をメインに祝辞を述べた(『崇教真光』誌平成16年12月号)。
さらに、1995年のフランス議会の報告書「フランスにおけるセクト(カルト)教団」では崇教真光をカルトの一つとして指摘されている。日本の新宗教では他に創価学会・霊友会・幸福の科学などがカルトと名指しされている。また、2007年3月22日発売のルクセンブルグの週刊誌「ランヴェスティガトゥール」でもセクト(カルト)教団と名指しされている。同誌にてフランスの信徒の児童虐待による逮捕や、数百万フランの不正請求を欧州委員会人道援助局に行なった疑惑も報じられている。ただし、教団広報は事実誤認と否定した。
●本部所在地 岐阜県高山市上岡本町2-596-1 電話 0577-34-7008
(引用文献:新宗教ガイドブック、ウィキペディア)
今回のボヤッキー 「我が日本は、銃社会である米国と共通した価値観をもっていると私は認識しているのであります」
「日本沈没まで、あと88日」
【崇教真光(すうきょうまひかり)】
●創始者 岡田光玉
●代表者 岡田甲子教之主
●崇拝対象 御親元主真光大御神(みおやもとすまひかりおおみかみ)
●沿革 創始者・岡田光玉の養女・岡田聖珠(甲子と改名)は、昭和4年12月生まれで、52年4月、世界真光文明教団から分派独立して設立した。翌年の53年6月、宗教法人の認証を得ている。
●特色 教えは世界真光文明教団とほぼ同じで、手かざしによって、仕事の能率が上がり、病気が治る、と説く。また、この手かざしは、誰でもが身につけることができるとし、全国の教団各道場で初心者用に「研修会」が開かれている。研修の法則や先祖供養の大切さなどを学び、最後の3日目に「御み霊(おみたま)」を受け、手かざしの方法を学ぶ。59年11月、岐阜県飛騨の高山に総工費450億円を費やして世界総本山「モトスオホカムノミヤ」を建設した。敷地面積約2万平方㍍、地下1階、地上3階の黄金色をした神殿で、この地に建てたのは、天地創造の神から、「世界救世の基地、世界総本山を天越根中日玉国(あまこしねなかひだまこく)高山の地に御建立せよ」とのお告げがあったからだという。なお、同教団は、地球は元ひとつ、人類は元ひとつ、万教の元ひとつの理想で世界恒久平和を訴えており、さらには、世界の5大宗教を統轄する使命をおびた教団であると自負している。教義として、仏教、キリスト教、神道(しんとう)、回教、儒教、道教などの大元を解くとしている。しかし、他の宗教に対する否定的な教義も多く、例えば、釈尊が弟子に仏教とは如何なる教えかと質問されたのに対し「真如の教えなり」と答えたとするエピソードを紹介し、その返答を教団の教義では「真如」とは「真の如きもの」の意と解釈し、仏教の教えは「仮の教え」と見なしている(『御聖言』)。豆まきや神道のしめ縄についても正神の神に対する呪術として否定している(『陽光子祈言集』)。また、教団は「陽光農法」と呼ばれる農作物の生産方法を提唱し、「陽光農法」に基づく「陽光農園」や家庭菜園の推進を行なっている。「陽光農法」は「手かざし」「想念」「言霊」「有機堆肥」の4項目を基本とし、大地の浄化や非常用食料の確保などを目的としている。信徒が経営する企業(ミズラホ、ゆうき)が陽光農法で栽培された農作物の販売を行なっている。信徒は毎月500円(日本国外でもおおよそ同じ金額)の『霊線保持御礼(れいせんほじおんれい)』を納める必要があり、5年間の未納がある場合は除名となる。但し、『霊線保持御礼』未納の信徒がいる場合、他の信徒によって代納が行われる場合が多い。信徒の退会は自由とされているが、所属道場に退会希望を申し出ても「御み霊」を預かるのみで保留となる場合や、他の信徒が説得の為に自宅への電話や訪問を行う場合もある。真光隊の最高幹部である総裁は教え主が兼任することが定められている。また、真光隊では隊員に総裁を『総裁教え主様』と呼ばせ、絶対視・神聖視させるように教育されている。最敬礼は天皇・皇后(こうごう)・皇太子と教え主・教え主代理にのみ行われる。また、崇教真光の教義では教え主は全人類を導く主とされていることから、教団内では、国王・王族や大統領・首相は『総裁教え主様』よりも下級の存在であると捉えられている。
一方、政治家との関係も親密で、教え主である岡田恵珠が1984年に藤●●●官房長官の案内で総理官邸を訪問し(『真光』誌260号)、1986年7月29日には村▲▲▲参院議員の案内で総理公邸を訪問して、いずれも中■■■■首相と面会している(新聞各紙)。その後、38周年秋季大祭(1997年)に刑事事件有罪となった藤●●●(リクルート事件)・村▲▲▲(KSD事件)といった議員を来賓に呼び、2000年12月にはKSD事件で翌月に逮捕された小×××の支持署名を集め、その後『崇教真光』誌528号で藤●●●からの投書を掲載している。そして、2004年1月16日に開催された自由民主党第70回定期党大会の席上では、友好団体として他の宗教団体と共に表彰を受けている。小★★★★は内閣総理大臣に就任した2001年以降自由民主党総裁として毎年秋季大祭へ祝電を送っており、43周年秋季大祭(2002年)では中@@@を自身の代理として出席させている。安◆◆◆も47周年秋季大祭(2006年)に自由民主党総裁として祝電を送っている。秋季大祭の来賓の中でも石●●●は少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露した(『崇教真光』誌平成13年12月号)。45周年秋季大祭(2004年)では自身が組み手(信徒)であることを明らかにし、組み手としての立場をメインに祝辞を述べた(『崇教真光』誌平成16年12月号)。
さらに、1995年のフランス議会の報告書「フランスにおけるセクト(カルト)教団」では崇教真光をカルトの一つとして指摘されている。日本の新宗教では他に創価学会・霊友会・幸福の科学などがカルトと名指しされている。また、2007年3月22日発売のルクセンブルグの週刊誌「ランヴェスティガトゥール」でもセクト(カルト)教団と名指しされている。同誌にてフランスの信徒の児童虐待による逮捕や、数百万フランの不正請求を欧州委員会人道援助局に行なった疑惑も報じられている。ただし、教団広報は事実誤認と否定した。
●本部所在地 岐阜県高山市上岡本町2-596-1 電話 0577-34-7008
(引用文献:新宗教ガイドブック、ウィキペディア)
今回のボヤッキー 「我が日本は、銃社会である米国と共通した価値観をもっていると私は認識しているのであります」
「日本沈没まで、あと88日」
Tuesday, April 24, 2007
ひとりごとⅦ⑫
政治資金規正法改正案 首相の決断 焦点
▼自民は反対論大勢
政治資金規正法は政治活動費に関して5万円以上の支出に領収書の保存、政治資金収支報告書への添付を義務付ける。家賃などの事務所費や光熱水費は領収書の保存義務はあるが、同報告書には総額のみ記載すればよい。松岡利勝農相らが家賃のかからない衆院議員会館を「主たる事務所」とし、高額の事務所費を計上していた問題が表面化している(ナントカ還元水問題)。=中略=自民党は「世論に迎合して領収書添付を義務付けると現実の政治活動に支障が出かねない」と反対論が大勢だが、一部には容認論もある。=与党内の調整迷走の一因は首相の対応だ。18日の公明党の太田昭宏代表との会談で、首相は政治資金規正法改正案の今国会提出を初めて明言したが、領収書添付義務付けの是非は明確にしなかった。19日にも記者団に「与党で詰まってきたと報告を受けている。あまり時間を置かずに最終的に案をまとめてもらいたい」とするにとどめた。
▼民主が対応を批判
民主党は1万円超の支出に領収書添付を義務付ける改正案を衆院に提出している。同党の岡田克也政治化改革推進本部長は、与党が義務付けで合意できなかった点を批判。「理解しがたい。怒るべきは私より(与党に法改正を指示した)安倍首相だ」と記者団に語った。
与党は5月上旬に再協議するが、自民党の調整役である石原伸晃党改革実行本部長が反対論を押し切って添付義務付けに動くのは難しい。自民党を取るか、公明党・世論を選ぶのか。首相に残された時間は少ない。 (4月20日 日経新聞)
政治資金規正法 5月下旬までに合意を
自民党の石原伸晃幹事長代理は23日の記者会見で「政治とカネ」問題を巡る事務所費の透明化策について「遅くとも国会会期末の1カ月前には何らかの形を示さなければいけない」と述べ、今国会で政治資金規正法改正案を成立させるには5月下旬までの与党合意が必要だとの認識を示した。 (4月23日 23:00 日経ネット)
今回のボヤッキー 「”子どもは(父)親の背中を見て育つ(てしまった)”というのは、紛れもない事実なのであります(世襲非容認論)」
「日本沈没まで、あと89日」
政治資金規正法改正案 首相の決断 焦点
▼自民は反対論大勢
政治資金規正法は政治活動費に関して5万円以上の支出に領収書の保存、政治資金収支報告書への添付を義務付ける。家賃などの事務所費や光熱水費は領収書の保存義務はあるが、同報告書には総額のみ記載すればよい。松岡利勝農相らが家賃のかからない衆院議員会館を「主たる事務所」とし、高額の事務所費を計上していた問題が表面化している(ナントカ還元水問題)。=中略=自民党は「世論に迎合して領収書添付を義務付けると現実の政治活動に支障が出かねない」と反対論が大勢だが、一部には容認論もある。=与党内の調整迷走の一因は首相の対応だ。18日の公明党の太田昭宏代表との会談で、首相は政治資金規正法改正案の今国会提出を初めて明言したが、領収書添付義務付けの是非は明確にしなかった。19日にも記者団に「与党で詰まってきたと報告を受けている。あまり時間を置かずに最終的に案をまとめてもらいたい」とするにとどめた。
▼民主が対応を批判
民主党は1万円超の支出に領収書添付を義務付ける改正案を衆院に提出している。同党の岡田克也政治化改革推進本部長は、与党が義務付けで合意できなかった点を批判。「理解しがたい。怒るべきは私より(与党に法改正を指示した)安倍首相だ」と記者団に語った。
与党は5月上旬に再協議するが、自民党の調整役である石原伸晃党改革実行本部長が反対論を押し切って添付義務付けに動くのは難しい。自民党を取るか、公明党・世論を選ぶのか。首相に残された時間は少ない。 (4月20日 日経新聞)
政治資金規正法 5月下旬までに合意を
自民党の石原伸晃幹事長代理は23日の記者会見で「政治とカネ」問題を巡る事務所費の透明化策について「遅くとも国会会期末の1カ月前には何らかの形を示さなければいけない」と述べ、今国会で政治資金規正法改正案を成立させるには5月下旬までの与党合意が必要だとの認識を示した。 (4月23日 23:00 日経ネット)
今回のボヤッキー 「”子どもは(父)親の背中を見て育つ(てしまった)”というのは、紛れもない事実なのであります(世襲非容認論)」
「日本沈没まで、あと89日」
Sunday, April 22, 2007
ひとりごとⅦ⑪
日本で若者の賃金格差に懸念・国連が報告
4/19 07:01 nikkei net
国連は18日、高齢化が進む日本で若年層に賃金格差が広がっていることなどを懸念する「2007年アジア太平洋経済社会報告」を発表した。報告は所得分配の偏(かたよ)りを示す「ジニ係数」が、日本で他の先進国平均よりも高くなったとした経済協力開発機構(OECD)の分析などを重視。高齢化の影響でジニ係数がかさ上げされたとする日本政府の反論も踏まえた上で、若年層の賃金格差を問題にしている。「ここ5年で倍増した非正規雇用の賃金は正社員よりも4割低く、社会保障の恩恵も限られる」と指摘。年金を受けられない高齢者や失業保険・生活保護に依存する低所得者の増大を招きかねないと警鐘を鳴らしている。アジア諸国は今後日本の後を追う形で高齢化を迎える。報告は「日本の挑戦はこれから高齢化、社会保障費の増大、景気後退に伴う財政赤字や失業給付の拡大といった現象に直面する国々へのシグナルになりうる」との見方を示した。 (ジュネーブ=市村孝二巳)
参院2補選・統一地方選後半戦、22日投開票
4/22 07:00 nikkei net
参院福島・沖縄両補欠選挙と統一地方選後半戦の一般市長・市議選や町村長・町村議選などが22日に投票され、一部を除き即日開票される。補選結果は夏の参院選の与野党の勝敗ラインに直結し、統一選での地方議員の増減も各党の今後の選挙戦術に影響を与える。いずれの選挙も同日深夜に大勢が判明する見通しだ。参院補選はいずれも知事選出馬のため現職が辞職したことに伴う。与党が2勝すれば参院での過半数維持に必要な議席数が65から63に下がるだけに、参院選の前哨戦として与野党とも総力戦で挑む。東京特別区の13区長選と21区議選も22日に実施。投票は午前7時に始まり、一部を除き午後8時に締め切られる。東京の大田、杉並両区などは23日の開票となる。全国の市区長選のうち「自民」「民主」の直接対決は7市区にとどまる。
「日本沈没まで、あと91日」
日本で若者の賃金格差に懸念・国連が報告
4/19 07:01 nikkei net
国連は18日、高齢化が進む日本で若年層に賃金格差が広がっていることなどを懸念する「2007年アジア太平洋経済社会報告」を発表した。報告は所得分配の偏(かたよ)りを示す「ジニ係数」が、日本で他の先進国平均よりも高くなったとした経済協力開発機構(OECD)の分析などを重視。高齢化の影響でジニ係数がかさ上げされたとする日本政府の反論も踏まえた上で、若年層の賃金格差を問題にしている。「ここ5年で倍増した非正規雇用の賃金は正社員よりも4割低く、社会保障の恩恵も限られる」と指摘。年金を受けられない高齢者や失業保険・生活保護に依存する低所得者の増大を招きかねないと警鐘を鳴らしている。アジア諸国は今後日本の後を追う形で高齢化を迎える。報告は「日本の挑戦はこれから高齢化、社会保障費の増大、景気後退に伴う財政赤字や失業給付の拡大といった現象に直面する国々へのシグナルになりうる」との見方を示した。 (ジュネーブ=市村孝二巳)
参院2補選・統一地方選後半戦、22日投開票
4/22 07:00 nikkei net
参院福島・沖縄両補欠選挙と統一地方選後半戦の一般市長・市議選や町村長・町村議選などが22日に投票され、一部を除き即日開票される。補選結果は夏の参院選の与野党の勝敗ラインに直結し、統一選での地方議員の増減も各党の今後の選挙戦術に影響を与える。いずれの選挙も同日深夜に大勢が判明する見通しだ。参院補選はいずれも知事選出馬のため現職が辞職したことに伴う。与党が2勝すれば参院での過半数維持に必要な議席数が65から63に下がるだけに、参院選の前哨戦として与野党とも総力戦で挑む。東京特別区の13区長選と21区議選も22日に実施。投票は午前7時に始まり、一部を除き午後8時に締め切られる。東京の大田、杉並両区などは23日の開票となる。全国の市区長選のうち「自民」「民主」の直接対決は7市区にとどまる。
「日本沈没まで、あと91日」
Saturday, April 21, 2007
ひとりごとⅦ⑩
地方議員:年金等の減額避ける前倒し辞職、九州で続々判明
地方議員が年金・退職金の減額を避けるため任期満了前に前倒しして辞職する問題で、任期満了前に市議を退職した56人(県議選出馬のための失職など含む)のうち、新たに福岡や熊本など4県の7市議会で少なくとも計14人が同様に辞職したことが毎日新聞の調べで分かった。既に判明している福岡県筑後市の4人、同県中間市の1人を加えると計19人になり、地方議員のあり方、姿勢が問われている。新たに判明した14人の内訳は▽福岡県嘉麻市3人▽同県朝倉市1人▽大分県別府市3人▽熊本県人吉市1人▽同県荒尾市1人▽佐賀県鹿島市3人▽同県多久市2人--で、いずれも年金・退職金の減額を逃れるための前倒し辞職を認めた。
地方議員が退職した場合、全国市議会議員共済会から、3期以上の議員には議員年金、2期以下の議員には退職金が支払われる。今月1日施行された改正地方公務員等共済組合法で、同日以降に退職した議員の年金や退職金の給付水準が原則12・5%引き下げられた。このため、法施行前の3月までに“駆け込み辞職”したらしい。各市の議員報酬によって年金額は異なる。例えば嘉麻市の場合、13人が前倒し辞職しており、年金額で年8万2800~12万3495円の減額を免れる。辞職した1人は「年金を減らしたくない、という気持ちはあった」と話している。別府市で前倒し辞職した6人は同17万6400~24万6960円の減額を免れることになるが、うち1人は「(年金額を減らさないため前倒しで辞めることは)おかしいとは思っていない。法を犯したり、制度に違反しているわけではない」と主張。また、辞職した元鹿島市議は「議員は生活に保障がなく、私にも生活がかかっている。財産も貯金もない。批判はあえて受ける。辞職を正当化するつもりはない。みんなやっていることだ」と開き直った。また、市議会によっては議会事務局が法改正について「早く辞める手もありますよ」などと説明していたケースもあった。一方、有権者たちは年金・退職金減額を逃れるための“前倒し辞職”への憤りを募らせている。佐賀県多久市多久町、パート、□□□□さん(48)は「全員が年金のためではないとは思うが、市民の信任を得て選ばれた人たちだから、ちゃんと4年の任期を満了してほしかった」。嘉麻市の男性(36)は「自分のことを中心に考えている気がして、許せない」と話した。 (毎日新聞 2007年4月15日 3時00分)
農相の光熱水費説明、拒否続く
「現行法制度に定められた必要なものはすべてやっている。それ以上の説明や報告は各党各会派の整理に従って対応するのが基本だ」。松岡利勝農相(自民党・熊本3区)は19日の参院予算委員会でも自身の政治資金管理団体の光熱水費問題について詳細な説明を拒み続けた。与党でも自民党の片山虎之助参院幹事長らが説明責任を指摘しているが、農相は「指摘は指摘として、私から特段感想を申し上げることはない」と木で鼻をくくった対応。民主党の芝博一氏らがいくら迫っても同じ答弁を繰り返した。安倍晋三首相も「適切に報告していると聞いている。職責を果たしてほしい」と擁護する姿勢を崩さなかった。今後の対応でも「政治資金規正法改正も視野に国民の信頼を得られるよう検討を指示している」と述べるにとどめた。民主党の小沢一郎代表は松山市で記者会見し、同党の中井洽氏が光熱水費付け替えを公表したことを強調し、「残されているのは、開き直っている権力サイドの皆さんだけ」と農相を批判した。
(日経ネット)
領収書添付、自公譲らず・首相の決断焦点、政治資金問題
「政治とカネ」に関する与党内の議論が堂々巡りしている。事務所費の領収書添付を巡っては、19日の政治資金問題の会合でも、公明党が義務付けを主張したが、自民党は反対し、双方とも譲る気配がない。政治資金規正法の改正という総論だけ指示し、中身を党任せにしている安倍晋三首相の決断が焦点となる。「透明性の確保も必要だが、プライバシーの問題がある」「現行法でも領収書保存の義務がある。添付すべきだ」。同日の与党の会合では、民主党の小沢一郎代表らの問題を念頭に資金管理団体による不動産所有禁止で一致したものの、領収書添付では自民、公明双方が持論をぶつけ合ういつもの展開になった。 (日経ネット)
緑資源談合 松岡農水相に102万円 新たに判明 疑惑の公益法人役員
松岡利勝農水相(衆院熊本3区)が、農林水産省所管の独立行政法人「緑資源機構」(本部川崎市)発注の調査業務をめぐる官製談合疑惑で、公正取引委員会の立ち入り検査を受けた公益法人の代表者らから計102万円の献金を受けていたことが本紙の調べでわかりました。同氏をめぐっては、本紙調査で公益法人などから計686万円の献金が明らかになっています。今回、新たに判明したのは、松岡氏の資金管理団体「松岡利勝新世紀政経懇話会」への個人献金です。
公取委の立ち入り検査を受けた財団法人「森公弘済会」(東京都千代田区)の理事長で元林野庁長官の塚本隆久氏が2001年-05年、毎年12万円の計60万円▽林野弘済会の会長で同じく元林野庁長官の高橋勲氏が04年に12万円▽日本森林技術協会の理事長で、元北海道森林管理局長の根橋達三氏が2000年に6万円▽財団法人「林業土木施設研究所」(文京区)の理事が01、02年に各12万円の計24万円-です。本紙は昨年11月27日付で、公取委の立ち入り検査を受けた公益法人やその関連企業、コンサルタント会社から、松岡氏が支部長の自民党熊本県第三選挙区支部と、「松岡利勝新世紀政経懇話会」が1996年から2005年までの10年間で、計686万円にのぼる献金を受け取っていたことを報道。今回判明分を合わせると788万円になります。松岡氏は、緑資源機構の官製談合に関連して、立ち入り検査を受けた公益法人からの献金について聞かれ、「平成11年(1999年)の時点で、全部、お返しをしていると思っている」「それ以降はないと聞いております」(3日の記者会見)と答えています。自主的な調査や、農水省として調査委員会の設置についても、松岡氏は「まずは(公取委の)調査を見守るというのが基本姿勢」(同)という消極的な態度に終始しています。 (2007年4月13日(金)「しんぶん赤旗」)
今回のボヤッキー 「もはや今のアタシには、例のボタンを押す気力さえ残っていないのでありまして、何卒皆さんに力を貸して頂きたいと考えるのであります」
「日本沈没まで、あと92日」
地方議員:年金等の減額避ける前倒し辞職、九州で続々判明
地方議員が年金・退職金の減額を避けるため任期満了前に前倒しして辞職する問題で、任期満了前に市議を退職した56人(県議選出馬のための失職など含む)のうち、新たに福岡や熊本など4県の7市議会で少なくとも計14人が同様に辞職したことが毎日新聞の調べで分かった。既に判明している福岡県筑後市の4人、同県中間市の1人を加えると計19人になり、地方議員のあり方、姿勢が問われている。新たに判明した14人の内訳は▽福岡県嘉麻市3人▽同県朝倉市1人▽大分県別府市3人▽熊本県人吉市1人▽同県荒尾市1人▽佐賀県鹿島市3人▽同県多久市2人--で、いずれも年金・退職金の減額を逃れるための前倒し辞職を認めた。
地方議員が退職した場合、全国市議会議員共済会から、3期以上の議員には議員年金、2期以下の議員には退職金が支払われる。今月1日施行された改正地方公務員等共済組合法で、同日以降に退職した議員の年金や退職金の給付水準が原則12・5%引き下げられた。このため、法施行前の3月までに“駆け込み辞職”したらしい。各市の議員報酬によって年金額は異なる。例えば嘉麻市の場合、13人が前倒し辞職しており、年金額で年8万2800~12万3495円の減額を免れる。辞職した1人は「年金を減らしたくない、という気持ちはあった」と話している。別府市で前倒し辞職した6人は同17万6400~24万6960円の減額を免れることになるが、うち1人は「(年金額を減らさないため前倒しで辞めることは)おかしいとは思っていない。法を犯したり、制度に違反しているわけではない」と主張。また、辞職した元鹿島市議は「議員は生活に保障がなく、私にも生活がかかっている。財産も貯金もない。批判はあえて受ける。辞職を正当化するつもりはない。みんなやっていることだ」と開き直った。また、市議会によっては議会事務局が法改正について「早く辞める手もありますよ」などと説明していたケースもあった。一方、有権者たちは年金・退職金減額を逃れるための“前倒し辞職”への憤りを募らせている。佐賀県多久市多久町、パート、□□□□さん(48)は「全員が年金のためではないとは思うが、市民の信任を得て選ばれた人たちだから、ちゃんと4年の任期を満了してほしかった」。嘉麻市の男性(36)は「自分のことを中心に考えている気がして、許せない」と話した。 (毎日新聞 2007年4月15日 3時00分)
農相の光熱水費説明、拒否続く
「現行法制度に定められた必要なものはすべてやっている。それ以上の説明や報告は各党各会派の整理に従って対応するのが基本だ」。松岡利勝農相(自民党・熊本3区)は19日の参院予算委員会でも自身の政治資金管理団体の光熱水費問題について詳細な説明を拒み続けた。与党でも自民党の片山虎之助参院幹事長らが説明責任を指摘しているが、農相は「指摘は指摘として、私から特段感想を申し上げることはない」と木で鼻をくくった対応。民主党の芝博一氏らがいくら迫っても同じ答弁を繰り返した。安倍晋三首相も「適切に報告していると聞いている。職責を果たしてほしい」と擁護する姿勢を崩さなかった。今後の対応でも「政治資金規正法改正も視野に国民の信頼を得られるよう検討を指示している」と述べるにとどめた。民主党の小沢一郎代表は松山市で記者会見し、同党の中井洽氏が光熱水費付け替えを公表したことを強調し、「残されているのは、開き直っている権力サイドの皆さんだけ」と農相を批判した。
(日経ネット)
領収書添付、自公譲らず・首相の決断焦点、政治資金問題
「政治とカネ」に関する与党内の議論が堂々巡りしている。事務所費の領収書添付を巡っては、19日の政治資金問題の会合でも、公明党が義務付けを主張したが、自民党は反対し、双方とも譲る気配がない。政治資金規正法の改正という総論だけ指示し、中身を党任せにしている安倍晋三首相の決断が焦点となる。「透明性の確保も必要だが、プライバシーの問題がある」「現行法でも領収書保存の義務がある。添付すべきだ」。同日の与党の会合では、民主党の小沢一郎代表らの問題を念頭に資金管理団体による不動産所有禁止で一致したものの、領収書添付では自民、公明双方が持論をぶつけ合ういつもの展開になった。 (日経ネット)
緑資源談合 松岡農水相に102万円 新たに判明 疑惑の公益法人役員
松岡利勝農水相(衆院熊本3区)が、農林水産省所管の独立行政法人「緑資源機構」(本部川崎市)発注の調査業務をめぐる官製談合疑惑で、公正取引委員会の立ち入り検査を受けた公益法人の代表者らから計102万円の献金を受けていたことが本紙の調べでわかりました。同氏をめぐっては、本紙調査で公益法人などから計686万円の献金が明らかになっています。今回、新たに判明したのは、松岡氏の資金管理団体「松岡利勝新世紀政経懇話会」への個人献金です。
公取委の立ち入り検査を受けた財団法人「森公弘済会」(東京都千代田区)の理事長で元林野庁長官の塚本隆久氏が2001年-05年、毎年12万円の計60万円▽林野弘済会の会長で同じく元林野庁長官の高橋勲氏が04年に12万円▽日本森林技術協会の理事長で、元北海道森林管理局長の根橋達三氏が2000年に6万円▽財団法人「林業土木施設研究所」(文京区)の理事が01、02年に各12万円の計24万円-です。本紙は昨年11月27日付で、公取委の立ち入り検査を受けた公益法人やその関連企業、コンサルタント会社から、松岡氏が支部長の自民党熊本県第三選挙区支部と、「松岡利勝新世紀政経懇話会」が1996年から2005年までの10年間で、計686万円にのぼる献金を受け取っていたことを報道。今回判明分を合わせると788万円になります。松岡氏は、緑資源機構の官製談合に関連して、立ち入り検査を受けた公益法人からの献金について聞かれ、「平成11年(1999年)の時点で、全部、お返しをしていると思っている」「それ以降はないと聞いております」(3日の記者会見)と答えています。自主的な調査や、農水省として調査委員会の設置についても、松岡氏は「まずは(公取委の)調査を見守るというのが基本姿勢」(同)という消極的な態度に終始しています。 (2007年4月13日(金)「しんぶん赤旗」)
今回のボヤッキー 「もはや今のアタシには、例のボタンを押す気力さえ残っていないのでありまして、何卒皆さんに力を貸して頂きたいと考えるのであります」
「日本沈没まで、あと92日」
ひとりごとⅦ⑨
<<目黒区オンブズマン>> 『税金の無駄遣いをチェック』
目黒区議会議員選挙 立候補者届出番号順一覧(PDF)
今回のボヤッキー 「投開票スタッフの方々にチップを差し上げたい気持ちであります」
<<目黒区オンブズマン>> 『税金の無駄遣いをチェック』
目黒区議会議員選挙 立候補者届出番号順一覧(PDF)
今回のボヤッキー 「投開票スタッフの方々にチップを差し上げたい気持ちであります」
Friday, April 20, 2007
ひとりごとⅦ⑧
家族会活動に参加の意向 鳥海さん気遣う横田夫妻
2007年4月20日 20時35分 TOKYO Web
1973年に東京で失跡した渡辺秀子さん=当時(32)=母子3人のうち子供2人について、北朝鮮に拉致されたと警察当局が断定したのを受け、渡辺さんの妹鳥海冏子さん(北海道帯広市在住)が20日、拉致被害者家族会代表の横田滋さん(74)らと内閣府で面会、家族会の活動に参加する意向を伝えた。渡辺さんの夫は北朝鮮工作員だったとされ、鳥海さんは「拉致被害者や家族の方に申し訳ない」と謝罪。横田さんの妻早紀江さん(71)は「皆それぞれ事情があります。気にせずに頑張りましょう」と気遣った。鳥海さんは面会後の記者会見で「長い間の胸のつかえが取れた」と涙ながらに話した。鳥海さんはこれに先立ち、渡辺さんの長女高敬美ちゃん=同(6)、長男剛ちゃん=同(3)=の2児を、政府が拉致被害者と認定するよう内閣府の河内隆総合調整室長に要望した。 (合同)
沖縄戦集団自決「軍の強制」削除 文科相が検定擁護 赤嶺議員追及
伊吹文明文科相は11日の衆院文部科学委員会で、2006年度高校日本史教科書検定で、沖縄戦時の「集団自決」をめぐり、「日本軍の強制」を削除する修正がおこなわれたことを擁護する態度を示しました。日本共産党の赤嶺政賢議員が追及しました。文科省公表の検定結果では、例えば、「日本軍によって集団自決に追い込まれた住民もあった」の記述が、単に「自決した住民もいた」に修正させられています。赤嶺氏がその根拠をただしたのにたいし、銭谷真美文科省初等中等教育局長は、「最近の著書」とともに、沖縄県座間味島の元守備隊長らが『沖縄ノート』の著者大江健三郎氏と岩波書店を相手におこなっている訴訟をあげました。赤嶺氏は、訴訟は継続中であり、原告の証言さえおこなわれていないこと、さらに原告がこれを「冤罪(えんざい)訴訟」と宣伝し、文科省まで同じ表現で紹介していることを指摘し、「重大問題だ」と強調しました。伊吹文科相は、「(冤罪の表現は)極めて不適切」としつつも、「検定は専門家による審議会がおこなっており、介入することはできない」などと答弁。赤嶺氏は、沖縄戦は本土防衛のための捨て石作戦であり、当時の沖縄守備の総指揮官が「生きて虜囚の辱めを受くることなく悠久の大義に生くべし」と軍命令を出していた事実も示し、「権限を持っていないからと、大臣が真実を隠すことは許されない」と厳しく批判しました。
(2007年4月12日(木)「しんぶん赤旗」)
今回のボヤッキー 「”庶民の王者”様が教鞭(きょうべん)を揮(ふる)っている大学が麻疹(はしか)で休校となり、その学生らはと言うと、統一地方選を目前に麻疹菌の散布とF取りに没頭中ということであります」
「日本沈没まで、あと93日」
家族会活動に参加の意向 鳥海さん気遣う横田夫妻
2007年4月20日 20時35分 TOKYO Web
1973年に東京で失跡した渡辺秀子さん=当時(32)=母子3人のうち子供2人について、北朝鮮に拉致されたと警察当局が断定したのを受け、渡辺さんの妹鳥海冏子さん(北海道帯広市在住)が20日、拉致被害者家族会代表の横田滋さん(74)らと内閣府で面会、家族会の活動に参加する意向を伝えた。渡辺さんの夫は北朝鮮工作員だったとされ、鳥海さんは「拉致被害者や家族の方に申し訳ない」と謝罪。横田さんの妻早紀江さん(71)は「皆それぞれ事情があります。気にせずに頑張りましょう」と気遣った。鳥海さんは面会後の記者会見で「長い間の胸のつかえが取れた」と涙ながらに話した。鳥海さんはこれに先立ち、渡辺さんの長女高敬美ちゃん=同(6)、長男剛ちゃん=同(3)=の2児を、政府が拉致被害者と認定するよう内閣府の河内隆総合調整室長に要望した。 (合同)
沖縄戦集団自決「軍の強制」削除 文科相が検定擁護 赤嶺議員追及
伊吹文明文科相は11日の衆院文部科学委員会で、2006年度高校日本史教科書検定で、沖縄戦時の「集団自決」をめぐり、「日本軍の強制」を削除する修正がおこなわれたことを擁護する態度を示しました。日本共産党の赤嶺政賢議員が追及しました。文科省公表の検定結果では、例えば、「日本軍によって集団自決に追い込まれた住民もあった」の記述が、単に「自決した住民もいた」に修正させられています。赤嶺氏がその根拠をただしたのにたいし、銭谷真美文科省初等中等教育局長は、「最近の著書」とともに、沖縄県座間味島の元守備隊長らが『沖縄ノート』の著者大江健三郎氏と岩波書店を相手におこなっている訴訟をあげました。赤嶺氏は、訴訟は継続中であり、原告の証言さえおこなわれていないこと、さらに原告がこれを「冤罪(えんざい)訴訟」と宣伝し、文科省まで同じ表現で紹介していることを指摘し、「重大問題だ」と強調しました。伊吹文科相は、「(冤罪の表現は)極めて不適切」としつつも、「検定は専門家による審議会がおこなっており、介入することはできない」などと答弁。赤嶺氏は、沖縄戦は本土防衛のための捨て石作戦であり、当時の沖縄守備の総指揮官が「生きて虜囚の辱めを受くることなく悠久の大義に生くべし」と軍命令を出していた事実も示し、「権限を持っていないからと、大臣が真実を隠すことは許されない」と厳しく批判しました。
(2007年4月12日(木)「しんぶん赤旗」)
今回のボヤッキー 「”庶民の王者”様が教鞭(きょうべん)を揮(ふる)っている大学が麻疹(はしか)で休校となり、その学生らはと言うと、統一地方選を目前に麻疹菌の散布とF取りに没頭中ということであります」
「日本沈没まで、あと93日」
アジアの中の日本⑥
信濃川朝鮮人虐殺事件(しなのがわ・ちょうせんじん・ぎゃくさつじけん)
信濃川(新潟県)の上流から朝鮮人の死体が次々と流れてくるという大正期に起きた怪事件。1922年(大正11年)7月、信越電力株式会社は信濃川の支流中津川上流に水力発電所の建設をはじめた(黒又ダムは、黒又川第一ダムの下流、破間川との合流点付近に建設された東北電力が管理するダム。 信濃川水系で最も古い時期に建設されたダムで、1926年に完成した)。集められた土工は1,000余名であったが、そのうち半数は朝鮮人であった。工事は「蛸部屋(たこべや)」と呼ばれる低劣狭隘(ていれつきょうあい)な共同住居に労働者を拘束する形で、全くの人海戦術がとられたのであったが、勤務態度が怠惰(たいだ)であったり、職場を放棄して逃亡しようと試みて失敗した者らが、監督者らに陰惨な仕打ちを受け、遂には絶命した者の虐殺体が遺棄され流されてきたのである。工事開始以来連日流れてきたため新潟県内流域などで大騒ぎとなり、これを東京の読売新聞が同年7月29日、おどろおどろしい見出しとともに報じたので広く巷間(こうかん)に知れ渡るようになった。犠牲者の総数や、そのうちどれほどが朝鮮人であったか等肝心な部分は今日なお判然としない。しかし当時東京にあった朝鮮人朴烈(ぼくれつ)らは、この怪事件の裏に横たわる、朝鮮人労働者に対する根深い差別意識に憤怒(ふんど)し、ただちに同年9月7日、神田美土代町キリスト教青年会館(YMCA)で「信濃川虐殺問題大演説会」を開催し、事の真相を明らかにするよう要求した。先に社会主義者堺利彦、山川均らによって創刊された政治誌『前衛』もこれを大きく取り上げ、大阪で同年12月「朝鮮人労働者同盟」が発足するや、日本総同盟も朝鮮人による労働運動に目を向け始め、怪事件をきっかけとして、日本の社会主義と朝鮮の労働運動がここにはじめて接近したのである。
(引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
沖縄戦末期と沖縄住民の状況(虐殺肯定派の意見)
沖縄戦末期になると、現場の日本兵にとって民間人の保護は現実的に受け入れられない状況であった。逆に日本兵自身が安全な壕内に避難するため、「我々はお国のために闘っているのだ」という口実によって先に避難していた住民を追い出す者さえも一部いた(ひめゆりの塔で知られる陸軍病院伊原第三外科壕や他の第一・第二外科壕、本部壕なども「追い出し壕」とされている)。ガマの中で泣き止まない赤ん坊を黙らせるために殺害した事例も報告されている。また、民間人に対するアメリカ軍の人道的扱いを期待した日本兵が、意図的に民間人の避難先に潜り込んでゲリラ活動を展開したという話も残っており、それが米軍を「馬乗り攻撃」に踏みきらせたとも言われている。その一方で、日本軍は沖縄住民のスパイ活動を警戒して方言の使用禁止を命じ、方言を使った住民をスパイ容疑で処刑したこともあったという(実際にアメリカ軍は沖縄2世日系人を使って住民撹乱工作を実施しており、日本軍はその対処に苦慮していた)。また米軍から住民に配給された食糧を狙って飢えた敗残兵が襲撃を行うなど、軍民の信頼関係は著しく損なわれた。
生存者の中には「日本兵のほうがアメリカ兵より怖かった」「『捕まったら強姦されるか殺される』と聞いていたのに優しくしてもらえて驚いた」などと証言する者が多くいる。南部に現存する「轟(とどろき)の壕(ごう)」では、「泣き声で敵に発見される」という理由で壕内で幼児を虐殺するなどをしたうえ、投降を警戒した兵士が住民を奥に追いやって監視をしたため大量の餓死者が発生し、また危険が迫ると逆に住民を入口付近において盾にした挙げ句馬乗り攻撃で多数の犠牲が出た。そのため、投降した住民がアメリカ軍に「日本の兵隊を生かしますか?」と問われて「殺せ!」と答えたという。読谷村では、山中に潜んでいた日本軍がアメリカ軍保護下の住民を連れ出して虐殺するという事件があったという。 アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。また、終戦後のアメリカ軍も日本人を軽く扱い、アメリカ兵による強姦や殺人などの事件が日本へ沖縄領土が返還されるまで多数起きており、沖縄領土が返還されてからはアメリカ兵による事件が少なくはなったものの後を絶たないのが現状である。このように、結果として沖縄戦は民間人に甚大な被害をもたらす悲惨きわまりないものとなり、また「友軍」と呼んで期待していた日本軍に捨て石にされたという想いもあって、この遺恨は今日も続いている。 苦戦を強いられた日本軍が住民らに自決することを勧め、実際に手榴弾により集団で自殺したり、家族同士がカマなどで殺しあったりする悲劇も生じた(チビチリガマでの惨劇がよく知られている)。軍の行為やそれまでの教育が間接的な原因となっていたとの指摘もある。
(引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
今回のボヤッキー 「破防法ならぬ、デスラー砲用意!美しい国、日本っ!!」
信濃川朝鮮人虐殺事件(しなのがわ・ちょうせんじん・ぎゃくさつじけん)
信濃川(新潟県)の上流から朝鮮人の死体が次々と流れてくるという大正期に起きた怪事件。1922年(大正11年)7月、信越電力株式会社は信濃川の支流中津川上流に水力発電所の建設をはじめた(黒又ダムは、黒又川第一ダムの下流、破間川との合流点付近に建設された東北電力が管理するダム。 信濃川水系で最も古い時期に建設されたダムで、1926年に完成した)。集められた土工は1,000余名であったが、そのうち半数は朝鮮人であった。工事は「蛸部屋(たこべや)」と呼ばれる低劣狭隘(ていれつきょうあい)な共同住居に労働者を拘束する形で、全くの人海戦術がとられたのであったが、勤務態度が怠惰(たいだ)であったり、職場を放棄して逃亡しようと試みて失敗した者らが、監督者らに陰惨な仕打ちを受け、遂には絶命した者の虐殺体が遺棄され流されてきたのである。工事開始以来連日流れてきたため新潟県内流域などで大騒ぎとなり、これを東京の読売新聞が同年7月29日、おどろおどろしい見出しとともに報じたので広く巷間(こうかん)に知れ渡るようになった。犠牲者の総数や、そのうちどれほどが朝鮮人であったか等肝心な部分は今日なお判然としない。しかし当時東京にあった朝鮮人朴烈(ぼくれつ)らは、この怪事件の裏に横たわる、朝鮮人労働者に対する根深い差別意識に憤怒(ふんど)し、ただちに同年9月7日、神田美土代町キリスト教青年会館(YMCA)で「信濃川虐殺問題大演説会」を開催し、事の真相を明らかにするよう要求した。先に社会主義者堺利彦、山川均らによって創刊された政治誌『前衛』もこれを大きく取り上げ、大阪で同年12月「朝鮮人労働者同盟」が発足するや、日本総同盟も朝鮮人による労働運動に目を向け始め、怪事件をきっかけとして、日本の社会主義と朝鮮の労働運動がここにはじめて接近したのである。
(引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
沖縄戦末期と沖縄住民の状況(虐殺肯定派の意見)
沖縄戦末期になると、現場の日本兵にとって民間人の保護は現実的に受け入れられない状況であった。逆に日本兵自身が安全な壕内に避難するため、「我々はお国のために闘っているのだ」という口実によって先に避難していた住民を追い出す者さえも一部いた(ひめゆりの塔で知られる陸軍病院伊原第三外科壕や他の第一・第二外科壕、本部壕なども「追い出し壕」とされている)。ガマの中で泣き止まない赤ん坊を黙らせるために殺害した事例も報告されている。また、民間人に対するアメリカ軍の人道的扱いを期待した日本兵が、意図的に民間人の避難先に潜り込んでゲリラ活動を展開したという話も残っており、それが米軍を「馬乗り攻撃」に踏みきらせたとも言われている。その一方で、日本軍は沖縄住民のスパイ活動を警戒して方言の使用禁止を命じ、方言を使った住民をスパイ容疑で処刑したこともあったという(実際にアメリカ軍は沖縄2世日系人を使って住民撹乱工作を実施しており、日本軍はその対処に苦慮していた)。また米軍から住民に配給された食糧を狙って飢えた敗残兵が襲撃を行うなど、軍民の信頼関係は著しく損なわれた。
生存者の中には「日本兵のほうがアメリカ兵より怖かった」「『捕まったら強姦されるか殺される』と聞いていたのに優しくしてもらえて驚いた」などと証言する者が多くいる。南部に現存する「轟(とどろき)の壕(ごう)」では、「泣き声で敵に発見される」という理由で壕内で幼児を虐殺するなどをしたうえ、投降を警戒した兵士が住民を奥に追いやって監視をしたため大量の餓死者が発生し、また危険が迫ると逆に住民を入口付近において盾にした挙げ句馬乗り攻撃で多数の犠牲が出た。そのため、投降した住民がアメリカ軍に「日本の兵隊を生かしますか?」と問われて「殺せ!」と答えたという。読谷村では、山中に潜んでいた日本軍がアメリカ軍保護下の住民を連れ出して虐殺するという事件があったという。 アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。また、終戦後のアメリカ軍も日本人を軽く扱い、アメリカ兵による強姦や殺人などの事件が日本へ沖縄領土が返還されるまで多数起きており、沖縄領土が返還されてからはアメリカ兵による事件が少なくはなったものの後を絶たないのが現状である。このように、結果として沖縄戦は民間人に甚大な被害をもたらす悲惨きわまりないものとなり、また「友軍」と呼んで期待していた日本軍に捨て石にされたという想いもあって、この遺恨は今日も続いている。 苦戦を強いられた日本軍が住民らに自決することを勧め、実際に手榴弾により集団で自殺したり、家族同士がカマなどで殺しあったりする悲劇も生じた(チビチリガマでの惨劇がよく知られている)。軍の行為やそれまでの教育が間接的な原因となっていたとの指摘もある。
(引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
今回のボヤッキー 「破防法ならぬ、デスラー砲用意!美しい国、日本っ!!」
Thursday, April 19, 2007
アジアの中の日本⑤
1592年 文禄(ぶんろく)の役(えき) 朝鮮へ出兵
1597年 慶長(けいちょう)の役 再度、朝鮮へ出兵
1637年 島原・天草の乱
1639年 鎖国体制完了
・
・
・
1894年 日清戦争勃発
1910年 幸徳事件(大逆事件①)
〃 韓国併合条約締結(朝鮮を植民地化)
1914年 第一次世界大戦勃発
1922年 信濃川朝鮮人虐殺事件
1923年 虎ノ門事件(大逆事件②)
1925年 朴烈(ぼくれつ)事件(大逆事件③)
1931年 満州事変勃発
1932年 桜田門外事件(大逆事件④)
1933年 国際連盟脱退
1937年 盧溝橋(ろこうきょう)事件
〃 日中戦争勃発
〃 南京大虐殺
1938年 満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍創設
1939年 ノモンハン事件
1941年 真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発
1942年 翼賛(よくさん)選挙実施
1945年 東京大空襲
〃 米軍、沖縄上陸
〃 広島原爆投下
〃 長崎原爆投下
〃 ポツダム宣言受託(無条件降伏)
1972年 沖縄、本土復帰
〃 日中国交正常化
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本、ウィキペディア)
今回のボヤッキー 「近代・現代史の学習は、狭義・広義に関係なく、世界平和実現のために欠かすことのできないものなのであります」
「日本沈没まで、あと94日」
1592年 文禄(ぶんろく)の役(えき) 朝鮮へ出兵
1597年 慶長(けいちょう)の役 再度、朝鮮へ出兵
1637年 島原・天草の乱
1639年 鎖国体制完了
・
・
・
1894年 日清戦争勃発
1910年 幸徳事件(大逆事件①)
〃 韓国併合条約締結(朝鮮を植民地化)
1914年 第一次世界大戦勃発
1922年 信濃川朝鮮人虐殺事件
1923年 虎ノ門事件(大逆事件②)
1925年 朴烈(ぼくれつ)事件(大逆事件③)
1931年 満州事変勃発
1932年 桜田門外事件(大逆事件④)
1933年 国際連盟脱退
1937年 盧溝橋(ろこうきょう)事件
〃 日中戦争勃発
〃 南京大虐殺
1938年 満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍創設
1939年 ノモンハン事件
1941年 真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発
1942年 翼賛(よくさん)選挙実施
1945年 東京大空襲
〃 米軍、沖縄上陸
〃 広島原爆投下
〃 長崎原爆投下
〃 ポツダム宣言受託(無条件降伏)
1972年 沖縄、本土復帰
〃 日中国交正常化
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本、ウィキペディア)
今回のボヤッキー 「近代・現代史の学習は、狭義・広義に関係なく、世界平和実現のために欠かすことのできないものなのであります」
「日本沈没まで、あと94日」
Wednesday, April 18, 2007
ひとりごとⅦ⑦
長崎市長が死亡 銃撃事件 トラブル逆恨みか
2007年4月18日 夕刊 TOKYO Web
JR長崎駅前で銃撃され重篤状態だった長崎市の伊藤一長市長(61)は18日午前2時28分、大量出血のため、蘇生(そせい)措置を受けていた長崎大病院で死亡した。病院によると、緊急手術で人工心肺を装着したが意識は一度も戻らず、妻十四子さん(61)ら家族に見守られながら息を引き取ったという。殺人未遂の現行犯で逮捕された指定暴力団山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)=同市風頭町=は長崎署捜査本部の調べに「市とのトラブルが頭にきていた。市長を殺し、自分も死んでも構わないぐらいの気持ちでやった」と供述。2003年に市道工事現場で自分の乗用車に傷が付いたことをめぐり、道路工事会社や仲裁した市とトラブルになり、市役所に30回以上抗議に押し掛けていたことも新たに分かり、捜査本部は城尾容疑者が市への逆恨みを募らせていたとみて、市長銃撃に至った経緯を詳しく調べる。捜査本部は18日、容疑を殺人に切り替え、城尾容疑者宅や水心会事務所など5,6カ所を家宅捜索した。長崎市によると、城尾容疑者は03年2月24日、市道工事現場の陥没個所で車が損傷したと主張。バンパーに傷が付いた程度だったが、道路工事会社に補償金約60万円を要求し、市道路維持課が仲裁に入った。城尾容疑者は市役所に来るたびに要求をつり上げ、最終的な額は2百数十万円になった。市は県警に相談し、不当要求に当たるとして05年1月、交渉を打ち切った。城尾容疑者はその後もこのトラブルをめぐって、伊藤市長や市の担当者を刑事告発したり、自身のホームページに主張を掲載し続けたりしていた。ただ、市長への面会要求は一度もなく、市の担当者も「軽微な事案」と市長には経緯を報告していなかった。伊藤市長は17日午後7時50分ごろ、長崎駅前にある事務所前で選挙カーを降りた直後、待ち伏せしていたとみられる城尾容疑者に背後から2発撃たれた。弾丸は2つとも右肩甲骨の下から体内に入り、肺と心臓を突き破って胸骨で止まっていた。
殺人(未遂)の現行犯で逮捕された指定暴力団山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)=同市風頭町=は長崎署捜査本部の調べに「市とのトラブルが頭にきていた。市長を殺し、自分も死んでも構わないぐらいの気持ちでやった」と供述。
(2007年4月18日 TOKYO Webより抜粋)
「数日前に(銃撃を予告する)紙を報道各社に送った」と供述。
(2007年4月18日 四国新聞より抜粋)
「市長、許せない」と郵便物
長崎市長銃撃事件で、殺人(未遂)の現行犯で逮捕された暴力団幹部 城尾哲弥容疑者(59)の名前が差出人として書かれた郵便物3通が17日、テレビ朝日(東京都港区)のニュース番組「報道ステーション」あてに届いたことが分かった。テレビ朝日は「伊藤一長市長を告発しているとみられる内容だが、犯行に直接つながるような文言はなかった」としている。警察には届けなかったという。中身は、4枚の紙に書かれた、伊藤市長を告発しているとみられる直筆の文書と、告発内容に関する資料、カセットテープなど。文書は「ここに真実を書いて、自分の事は責任を取ります。伊藤一長長崎市長を許せないのは、市民のため、県民のため、不正を許せないからです」という内容。市の公共工事をめぐるトラブルについても記載されている。=以下省略
(2007年4月18日 日経新聞)
先ず、尊い命が奪われたことにつきまして、
心よりご冥福をお祈り致します。
さて、今回の事件について新聞各紙を見てみると、「暴力団関係の事件」として穏便に処理しようといった思惑を感じてしまうのである。「市長を殺し、自分も死んでも構わないぐらいの気持ちでやった」とある。どうだろうか。上の記事にあるような些細な理由で、しかも自分の命を張ってまで他人の命を奪おうとするだろうか。犯行に使う凶器が拳銃となったのは、犯人が暴力団関係ということで入手のし易さから偶々そうなっただけであって、犯行がいかなる凶器で行われたかということは、この事件の真相(深層)において大して意味を持たないのではないかとまで思うのである。今ある限られた材料から、この犯人の心理状態を想像すると、単なる一過性のものとは違い、継続的に「何かによって追い詰められていた」と私には取れるのである。
殺された伊藤市長、どうにも顔相や漂わせる雰囲気が何かを感じさせるのです。市長を3期12年。工事の入札に関する部署であったり、商工課であったり、市警であったりと、市政の色をこの12年の間に変えていったのではないでしょうか。戦争の無い平和な社会は、この市長だけに限らず、本国において、一部の政党の者らを除けば誰しもが望んでいること。そういった長年に亘る社会貢献を否定するつもりは全く無いのだが、その裏で、ということも考えなければならないのである。人や物事に裏表があることは世の常識。場所が被爆地である長崎だけに、人々のそういった目もついつい曇ってしまうのかもしれない。
テレビ朝日に送られていた文書の中に「ここに真実を書いて、自分のことは責任を取ります」、そして「伊藤一長長崎市長を許せないのは、市民のため、県民のため、不正を許せないからです」とある。どうだろうか。今回の犯行を示唆していたように思えないだろうか。もし、テレビ朝日がこれを番組で取り上げていたら、もしかしたらこの犯行は防げたのかもしれない。また、もし警察に届け出ていたら、尊い命を失わずに済んだのかもしれない。「暴力は良くない」と誰もがコメントする。しかし、ここで、この「暴力」を「法を犯すこと」に置き換えてみたい。松岡農相の「ナントカ還元水」の件は一体どうなったのだろうか。我が国の首相は擁護するばかり。そうもしているうちに松岡農相は、大阪の市民団体の手によって告訴され、他の政治家はと言うと、好機であるはずの野党であっても、表立った動きは一切無かったのである。
伊藤市長の娘婿が市長選出馬 長崎市の伊藤一長市長(61)が暴力団幹部に射殺された事件を受け、伊藤市長の長女の夫で西日本新聞記者の横尾誠氏(40)が18日午後、長崎市役所で記者会見し、市長選に補充立候補することを表明した。同市長選は15日に告示され、4選を目指す伊藤市長と、共産党や無所属の新人3氏が争う構図となっていた。同市選挙管理委員会が18日午前、公選法に従い補充立候補の受け付けを開始した。受け付けは19日午後5時で締め切られ、22日に投開票される。
(4月18日 デイリースポーツオンライン)
私の臆測が当たっているとしたら、大変失礼かもしれないが、これは危険な流れである。この流れを一旦絶ち切って、新しい水に入れ替える必要があるのではないだろうか。今までの傾向からすれば、世襲にプラス面は考えにくく、むしろマイナス面の方が目立つ。とにかく、信頼が大きく揺らいでいる今の警察やジャーナリズムに、この事件の真相(深層)究明ならびにその公表を今一度期待したい。
「日本沈没まで、あと95日」
長崎市長が死亡 銃撃事件 トラブル逆恨みか
2007年4月18日 夕刊 TOKYO Web
JR長崎駅前で銃撃され重篤状態だった長崎市の伊藤一長市長(61)は18日午前2時28分、大量出血のため、蘇生(そせい)措置を受けていた長崎大病院で死亡した。病院によると、緊急手術で人工心肺を装着したが意識は一度も戻らず、妻十四子さん(61)ら家族に見守られながら息を引き取ったという。殺人未遂の現行犯で逮捕された指定暴力団山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)=同市風頭町=は長崎署捜査本部の調べに「市とのトラブルが頭にきていた。市長を殺し、自分も死んでも構わないぐらいの気持ちでやった」と供述。2003年に市道工事現場で自分の乗用車に傷が付いたことをめぐり、道路工事会社や仲裁した市とトラブルになり、市役所に30回以上抗議に押し掛けていたことも新たに分かり、捜査本部は城尾容疑者が市への逆恨みを募らせていたとみて、市長銃撃に至った経緯を詳しく調べる。捜査本部は18日、容疑を殺人に切り替え、城尾容疑者宅や水心会事務所など5,6カ所を家宅捜索した。長崎市によると、城尾容疑者は03年2月24日、市道工事現場の陥没個所で車が損傷したと主張。バンパーに傷が付いた程度だったが、道路工事会社に補償金約60万円を要求し、市道路維持課が仲裁に入った。城尾容疑者は市役所に来るたびに要求をつり上げ、最終的な額は2百数十万円になった。市は県警に相談し、不当要求に当たるとして05年1月、交渉を打ち切った。城尾容疑者はその後もこのトラブルをめぐって、伊藤市長や市の担当者を刑事告発したり、自身のホームページに主張を掲載し続けたりしていた。ただ、市長への面会要求は一度もなく、市の担当者も「軽微な事案」と市長には経緯を報告していなかった。伊藤市長は17日午後7時50分ごろ、長崎駅前にある事務所前で選挙カーを降りた直後、待ち伏せしていたとみられる城尾容疑者に背後から2発撃たれた。弾丸は2つとも右肩甲骨の下から体内に入り、肺と心臓を突き破って胸骨で止まっていた。
殺人(未遂)の現行犯で逮捕された指定暴力団山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)=同市風頭町=は長崎署捜査本部の調べに「市とのトラブルが頭にきていた。市長を殺し、自分も死んでも構わないぐらいの気持ちでやった」と供述。
(2007年4月18日 TOKYO Webより抜粋)
「数日前に(銃撃を予告する)紙を報道各社に送った」と供述。
(2007年4月18日 四国新聞より抜粋)
「市長、許せない」と郵便物
長崎市長銃撃事件で、殺人(未遂)の現行犯で逮捕された暴力団幹部 城尾哲弥容疑者(59)の名前が差出人として書かれた郵便物3通が17日、テレビ朝日(東京都港区)のニュース番組「報道ステーション」あてに届いたことが分かった。テレビ朝日は「伊藤一長市長を告発しているとみられる内容だが、犯行に直接つながるような文言はなかった」としている。警察には届けなかったという。中身は、4枚の紙に書かれた、伊藤市長を告発しているとみられる直筆の文書と、告発内容に関する資料、カセットテープなど。文書は「ここに真実を書いて、自分の事は責任を取ります。伊藤一長長崎市長を許せないのは、市民のため、県民のため、不正を許せないからです」という内容。市の公共工事をめぐるトラブルについても記載されている。=以下省略
(2007年4月18日 日経新聞)
先ず、尊い命が奪われたことにつきまして、
心よりご冥福をお祈り致します。
さて、今回の事件について新聞各紙を見てみると、「暴力団関係の事件」として穏便に処理しようといった思惑を感じてしまうのである。「市長を殺し、自分も死んでも構わないぐらいの気持ちでやった」とある。どうだろうか。上の記事にあるような些細な理由で、しかも自分の命を張ってまで他人の命を奪おうとするだろうか。犯行に使う凶器が拳銃となったのは、犯人が暴力団関係ということで入手のし易さから偶々そうなっただけであって、犯行がいかなる凶器で行われたかということは、この事件の真相(深層)において大して意味を持たないのではないかとまで思うのである。今ある限られた材料から、この犯人の心理状態を想像すると、単なる一過性のものとは違い、継続的に「何かによって追い詰められていた」と私には取れるのである。
殺された伊藤市長、どうにも顔相や漂わせる雰囲気が何かを感じさせるのです。市長を3期12年。工事の入札に関する部署であったり、商工課であったり、市警であったりと、市政の色をこの12年の間に変えていったのではないでしょうか。戦争の無い平和な社会は、この市長だけに限らず、本国において、一部の政党の者らを除けば誰しもが望んでいること。そういった長年に亘る社会貢献を否定するつもりは全く無いのだが、その裏で、ということも考えなければならないのである。人や物事に裏表があることは世の常識。場所が被爆地である長崎だけに、人々のそういった目もついつい曇ってしまうのかもしれない。
テレビ朝日に送られていた文書の中に「ここに真実を書いて、自分のことは責任を取ります」、そして「伊藤一長長崎市長を許せないのは、市民のため、県民のため、不正を許せないからです」とある。どうだろうか。今回の犯行を示唆していたように思えないだろうか。もし、テレビ朝日がこれを番組で取り上げていたら、もしかしたらこの犯行は防げたのかもしれない。また、もし警察に届け出ていたら、尊い命を失わずに済んだのかもしれない。「暴力は良くない」と誰もがコメントする。しかし、ここで、この「暴力」を「法を犯すこと」に置き換えてみたい。松岡農相の「ナントカ還元水」の件は一体どうなったのだろうか。我が国の首相は擁護するばかり。そうもしているうちに松岡農相は、大阪の市民団体の手によって告訴され、他の政治家はと言うと、好機であるはずの野党であっても、表立った動きは一切無かったのである。
伊藤市長の娘婿が市長選出馬 長崎市の伊藤一長市長(61)が暴力団幹部に射殺された事件を受け、伊藤市長の長女の夫で西日本新聞記者の横尾誠氏(40)が18日午後、長崎市役所で記者会見し、市長選に補充立候補することを表明した。同市長選は15日に告示され、4選を目指す伊藤市長と、共産党や無所属の新人3氏が争う構図となっていた。同市選挙管理委員会が18日午前、公選法に従い補充立候補の受け付けを開始した。受け付けは19日午後5時で締め切られ、22日に投開票される。
(4月18日 デイリースポーツオンライン)
私の臆測が当たっているとしたら、大変失礼かもしれないが、これは危険な流れである。この流れを一旦絶ち切って、新しい水に入れ替える必要があるのではないだろうか。今までの傾向からすれば、世襲にプラス面は考えにくく、むしろマイナス面の方が目立つ。とにかく、信頼が大きく揺らいでいる今の警察やジャーナリズムに、この事件の真相(深層)究明ならびにその公表を今一度期待したい。
「日本沈没まで、あと95日」
Tuesday, April 17, 2007
アジアの中の日本④
鎌倉文化はそれまで常に文化の担い手であった公家の手から、初めて武士や民衆へと裾野が広がった画期的な文化でした。この時期の代表的な文学である「平家物語」が琵琶法師(びわほうし)による平曲(へいきょく:平家物語を語る芸能)として伝承され、文字の読めない民衆にも親しまれたのはその象徴と言えます。とは言え、依然として文化の中心は貴族の手にあり、武士は貴族文化に対して剛直な武士的気風によって影響を与えるにとどまりました。逆に武士も貴族文化を取り入れ、学問や芸術に深い関心を寄せるようになります。鎌倉時代の文化を語るうえで、仏教の変遷を忘れることはできません。新仏教が起こり庶民生活の中にも仏教が入り込んできました。武家出身の僧で浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然(ほうねん)は念仏(南無阿弥陀仏)を唱えることですべての人々が往生(おうじょう)できると説き、その弟子・親鸞(しんらん)は浄土真宗(じょうどしんしゅう)を起こして武士や庶民の間にも仏教を広めました。一方、日蓮(にちれん)は法華経(ほっけきょう)の題目(南無妙法蓮華経)を唱えて往生するとする法華宗(ほっけしゅう:日蓮宗)を開き、幕府や他宗の迫害を受けながらも広く社会に浸透して行きました。幕府は禅宗(ぜんしゅう)の一派である臨済宗(りんざいしゅう)と強く結びついており、鎌倉に建長寺(けんちょうじ)や円覚寺(えんかくじ)などの寺院を建立して保護に努めました。また禅宗からは道元(どうげん)が開いた曹洞宗(そうとうしゅう)も現れます。いずれの宗派も武士から庶民にいたる広い階層に受け入れられたことが、鎌倉新仏教の特徴と言えるでしょう。
1401年に元寇(げんこう)以来途切れていた明(みん:中国)との国交を回復。中国と冊封(さくほう)の関係を結び、貿易を独占して巨利を得ると同時に、明から「日本国王源道義」の称号を得ます。自ら中国の支配下に入ったこの行為は国内で激しい非難を浴びますが、寺社や朝廷といった国内勢力ににらみを効かすために「日本国王」の称号を必要としたのでしょう。
北山文化は公家と武家の文化が融合して生まれた文化でした。南北朝の混乱期の直後だけに新たな文化を求める気概がみなぎっていた時期でもあります。猿楽能(さるがくのう)が観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)親子によって完成を見たのがこの時期です。絵画の世界では中国の影響を受けた水墨画が広まり、画僧・吉山民兆(きちざんみんちょう)、如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)といった水墨画の開拓者たちが活躍します。
足利義政が8代将軍となった頃、疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)で社会不安が生まれていました。そんな中、管領家である畠山氏と斯波氏に家督争いが起こります。さらに将軍家でも将軍継嗣(けいし)問題が起こり、義政の弟・義視(よしみ)と、義政と自分の子・義尚(よしひさ)を擁立しようとする日野富子(ひのとみこ)との間で激しい対立が生じます。これをきっかけに1467年(応仁元年)全面的な内乱へと発展し、東軍細川勝元(ほそかわかつもと)と西軍山名宗全(やまなそうぜん:出家名)とが諸大名を率いて争いました。応仁の乱と呼ばれるこの戦闘は1477年まで11年間続き、主戦場となった京都は完全に焦土(しょうど)と化します。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本)
伯耆尾高城主
山名氏重── 山名伯耆守守重(尾高城主)
∟ 岸備前守氏秀(竜王山城主)
∟ 左馬之進氏勝(鶴田高城にて戦死)
∟ 修理之進氏為
今回のボヤッキー 「関わりある邪教を振り払い、出家しようと考えるのであります」
「日本沈没まで、あと96日」
鎌倉文化はそれまで常に文化の担い手であった公家の手から、初めて武士や民衆へと裾野が広がった画期的な文化でした。この時期の代表的な文学である「平家物語」が琵琶法師(びわほうし)による平曲(へいきょく:平家物語を語る芸能)として伝承され、文字の読めない民衆にも親しまれたのはその象徴と言えます。とは言え、依然として文化の中心は貴族の手にあり、武士は貴族文化に対して剛直な武士的気風によって影響を与えるにとどまりました。逆に武士も貴族文化を取り入れ、学問や芸術に深い関心を寄せるようになります。鎌倉時代の文化を語るうえで、仏教の変遷を忘れることはできません。新仏教が起こり庶民生活の中にも仏教が入り込んできました。武家出身の僧で浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然(ほうねん)は念仏(南無阿弥陀仏)を唱えることですべての人々が往生(おうじょう)できると説き、その弟子・親鸞(しんらん)は浄土真宗(じょうどしんしゅう)を起こして武士や庶民の間にも仏教を広めました。一方、日蓮(にちれん)は法華経(ほっけきょう)の題目(南無妙法蓮華経)を唱えて往生するとする法華宗(ほっけしゅう:日蓮宗)を開き、幕府や他宗の迫害を受けながらも広く社会に浸透して行きました。幕府は禅宗(ぜんしゅう)の一派である臨済宗(りんざいしゅう)と強く結びついており、鎌倉に建長寺(けんちょうじ)や円覚寺(えんかくじ)などの寺院を建立して保護に努めました。また禅宗からは道元(どうげん)が開いた曹洞宗(そうとうしゅう)も現れます。いずれの宗派も武士から庶民にいたる広い階層に受け入れられたことが、鎌倉新仏教の特徴と言えるでしょう。
1401年に元寇(げんこう)以来途切れていた明(みん:中国)との国交を回復。中国と冊封(さくほう)の関係を結び、貿易を独占して巨利を得ると同時に、明から「日本国王源道義」の称号を得ます。自ら中国の支配下に入ったこの行為は国内で激しい非難を浴びますが、寺社や朝廷といった国内勢力ににらみを効かすために「日本国王」の称号を必要としたのでしょう。
北山文化は公家と武家の文化が融合して生まれた文化でした。南北朝の混乱期の直後だけに新たな文化を求める気概がみなぎっていた時期でもあります。猿楽能(さるがくのう)が観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)親子によって完成を見たのがこの時期です。絵画の世界では中国の影響を受けた水墨画が広まり、画僧・吉山民兆(きちざんみんちょう)、如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)といった水墨画の開拓者たちが活躍します。
足利義政が8代将軍となった頃、疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)で社会不安が生まれていました。そんな中、管領家である畠山氏と斯波氏に家督争いが起こります。さらに将軍家でも将軍継嗣(けいし)問題が起こり、義政の弟・義視(よしみ)と、義政と自分の子・義尚(よしひさ)を擁立しようとする日野富子(ひのとみこ)との間で激しい対立が生じます。これをきっかけに1467年(応仁元年)全面的な内乱へと発展し、東軍細川勝元(ほそかわかつもと)と西軍山名宗全(やまなそうぜん:出家名)とが諸大名を率いて争いました。応仁の乱と呼ばれるこの戦闘は1477年まで11年間続き、主戦場となった京都は完全に焦土(しょうど)と化します。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本)
伯耆尾高城主
山名氏重── 山名伯耆守守重(尾高城主)
∟ 岸備前守氏秀(竜王山城主)
∟ 左馬之進氏勝(鶴田高城にて戦死)
∟ 修理之進氏為
今回のボヤッキー 「関わりある邪教を振り払い、出家しようと考えるのであります」
「日本沈没まで、あと96日」
Monday, April 16, 2007
ひとりごとⅦ⑥
国民投票法案、参院で審議入り
憲法改正手続きを定める国民投票法案は16日午前の参院本会議で趣旨説明と質疑をし、参院での審議に入った。自民、公明両党は5月3日の憲法記念日を視野に早期成立を目指すが、民主など野党は衆院採決が強引だったと与党への反発を強めている。統一地方選や参院選をにらみ、駆け引きは激しさを増しそうだ。本会議では民主党の簗瀬進氏らが質問。法案提出者である自民党の保岡興治氏(鹿児島1区)が「参院ではゼロから議論を始めるのではなく、衆院の審議を踏まえて足らざる所を集中的に議論してほしい」と答弁したのに対し、共産党の市田忠義書記局長らが「参院の存在を無視した発言だ」などと反発。本会議は一時、ヤジで騒然となった。
(4月16日 12:30 日経ネット)
沖縄補選、自公やや先行、福島は民主リード
2007年04月15日23時55分 asahi.com
22日に投開票される参院沖縄、福島両選挙区の補欠選挙(いずれも被選挙数1)について、朝日新聞社は15日までに電話調査を実施し、取材で得た情報も合わせて中盤の情勢を探った。沖縄は自民、公明が推薦する島尻安伊子氏がやや先行し、民主、共産などが推す狩俣吉正氏が小差で続いて逆転をうかがっている。福島は民主の増子輝彦氏がリードしており、自民の山口勇氏が懸命に追い上げている。沖縄、福島ともに投票態度を明らかにしたのは回答者の7割前後。その人たちの回答をもとに分析すると、沖縄は島尻氏が自民支持層の8割を固め、公明支持層もほぼまとめた。30代、40代に浸透し、女性からの支持が厚い。狩俣氏は民主支持層の7割以上をまとめ、共産、社民支持層もほぼ押さえた。無党派層への浸透では狩俣氏がやや先行している。金城宏幸氏は苦しい。
選挙戦では、基地関連の論戦よりも格差是正や子育て支援など暮らしに密着した訴えが前面に出ている。情勢調査に併せて世論調査を実施し、選挙戦で「もっと議論してほしい」課題として「基地問題」と「暮らしにかかわる政策」のいずれかを選んでもらったところ、「暮らし」は6割を超え、「基地問題」は2割に満たなかった。「暮らし」を選んだ人は島尻氏に投票するという人が多く、「基地問題」を選んだ人では狩俣氏に投票するという人が多かった。沖縄の調査は沖縄タイムス社と共同で実施した。福島では、増子氏が民主支持層の9割を固めたほか、自民支持層の3割にも食い込んでいる。無党派層からも6割以上の支持を得ている。山口氏は公明支持層の大半を押さえたが、自民支持層は7割にとどまり、固めきれていない。宮本しづえ氏は共産支持層の9割をまとめているが、支持の広がりが見られない。
先ず、深刻に考えるべき国民投票法案。今の法案のままでは、たとえ投票率が低くても有効投票数の過半数で可決となってしまうということをご存知だろうか。つまり、自民党を強く支持する者や創価学会(公明党)・統一教会などの組織票がその有効投票数の半分を上回ることで、その改憲法案は可決され、現与党の思いのままにされてしまうということだ。そう、誤った方向へと再び・・・
現憲法は過去に誤った方向へと進んでしまった本国の反省を基に作られた、民主主義・平和主義の国家を目指すためのものであることを忘れてはならない。現憲法の主権在民といった原則などから考えても、今の投票率を無視した法案は意にそぐわない。せめて最低投票率の設定が必要である。技術のイノベーション(革新)の推進は認めても、現憲法のイノベーションは絶対に認めるべきではない。もし、国に重大な何かが起こったとしても、物事を推し進める者らは決してつらい状況には置かれない。つらい状況に置かれるのは、いつでも我々国民であることを老若男女を問わず忘れてはならない。また、国民投票の前段階である国会衆参通過(2/3以上で可決)は、我々国民が考えている以上に容易であることをここで付け加えておく。
次に、次の日曜日が投開票となる福島・沖縄の参院補選。その前に、記事にもある世論調査について疑問を投げ架けてみたい。私は今まで世論調査というものに遭遇したことがない。また、たとえその疑が晴れたとしても、じゃあ一体どういった時間帯に、またどういった地域に電話調査を実施しているのかということである。日中に単身世帯や共働き世帯に掛けたところで有効な回答を得られるはずがない。失礼かもしれないが、電話に出るとすれば政治について興味の薄いお年寄りや専業主婦ぐらいなもの。今回に限らず、今の世論調査の信憑性が極めて低いことは、大の大人でなくとも生徒・学生さんでも十分に解り得るはず。今のメディアが行う世論調査は、どうも国民の意思を誘導するためのものとしか思えないのである。さて、参院補選についてだが、どちらかと言えば私は沖縄の方を重要視している。心配しているといった方が近いかもしれない。記事の世論調査を信用したとして、沖縄県民は「基地問題」より「暮らしにかかわる政策」の方を重視している。どうだろう。この設問の設定自体がおかしいと私は思うのである。それはここで言う「基地問題」も「暮らしに関わる政策」の一部であると思うからである。基地は県民にとって生命・健康のリスクや珊瑚礁といった自然環境のリスクをも併せ持つ。今の国会では、憲法改正へのステップとして国民投票法案が推し進められている。もしも憲法9条が改憲されてしまうとしたら、そのリスクは間違いなく増大する。そうなってしまうと、もはや「暮らし」における格差是正や子育て支援どころの話ではなくなり、言わばサバイバル(生存、生き残り)の領域に達するだろう。現与党は沖縄に「交付金」という餌(家畜の食事)をぶら下げている、ということをくれぐれもお忘れなく。また、その交付金によって潤う、ごく限られた者らの姿を思い浮かべるべき。その者らの多くはメタボ体型であることは間違いないだろう。沖縄は今のタレント・アスリート育成といった方針を転換すべきであると思う。青い珊瑚礁とそれを映し出す透明度の高い海、そしてそこに棲む色とりどりの魚たち。そういった自然環境の中で、我々人間が共生を図る方法は、ごく限られているのではないかと私は考えるのである。得るにも、また逆に失うにも、あなた達の頭と心で悩むほどに考え、そして決めるべきである。
今回のボヤッキー 「世界に広げよう、友達の輪」
「日本沈没まで、あと97日」
国民投票法案、参院で審議入り
憲法改正手続きを定める国民投票法案は16日午前の参院本会議で趣旨説明と質疑をし、参院での審議に入った。自民、公明両党は5月3日の憲法記念日を視野に早期成立を目指すが、民主など野党は衆院採決が強引だったと与党への反発を強めている。統一地方選や参院選をにらみ、駆け引きは激しさを増しそうだ。本会議では民主党の簗瀬進氏らが質問。法案提出者である自民党の保岡興治氏(鹿児島1区)が「参院ではゼロから議論を始めるのではなく、衆院の審議を踏まえて足らざる所を集中的に議論してほしい」と答弁したのに対し、共産党の市田忠義書記局長らが「参院の存在を無視した発言だ」などと反発。本会議は一時、ヤジで騒然となった。
(4月16日 12:30 日経ネット)
沖縄補選、自公やや先行、福島は民主リード
2007年04月15日23時55分 asahi.com
22日に投開票される参院沖縄、福島両選挙区の補欠選挙(いずれも被選挙数1)について、朝日新聞社は15日までに電話調査を実施し、取材で得た情報も合わせて中盤の情勢を探った。沖縄は自民、公明が推薦する島尻安伊子氏がやや先行し、民主、共産などが推す狩俣吉正氏が小差で続いて逆転をうかがっている。福島は民主の増子輝彦氏がリードしており、自民の山口勇氏が懸命に追い上げている。沖縄、福島ともに投票態度を明らかにしたのは回答者の7割前後。その人たちの回答をもとに分析すると、沖縄は島尻氏が自民支持層の8割を固め、公明支持層もほぼまとめた。30代、40代に浸透し、女性からの支持が厚い。狩俣氏は民主支持層の7割以上をまとめ、共産、社民支持層もほぼ押さえた。無党派層への浸透では狩俣氏がやや先行している。金城宏幸氏は苦しい。
選挙戦では、基地関連の論戦よりも格差是正や子育て支援など暮らしに密着した訴えが前面に出ている。情勢調査に併せて世論調査を実施し、選挙戦で「もっと議論してほしい」課題として「基地問題」と「暮らしにかかわる政策」のいずれかを選んでもらったところ、「暮らし」は6割を超え、「基地問題」は2割に満たなかった。「暮らし」を選んだ人は島尻氏に投票するという人が多く、「基地問題」を選んだ人では狩俣氏に投票するという人が多かった。沖縄の調査は沖縄タイムス社と共同で実施した。福島では、増子氏が民主支持層の9割を固めたほか、自民支持層の3割にも食い込んでいる。無党派層からも6割以上の支持を得ている。山口氏は公明支持層の大半を押さえたが、自民支持層は7割にとどまり、固めきれていない。宮本しづえ氏は共産支持層の9割をまとめているが、支持の広がりが見られない。
先ず、深刻に考えるべき国民投票法案。今の法案のままでは、たとえ投票率が低くても有効投票数の過半数で可決となってしまうということをご存知だろうか。つまり、自民党を強く支持する者や創価学会(公明党)・統一教会などの組織票がその有効投票数の半分を上回ることで、その改憲法案は可決され、現与党の思いのままにされてしまうということだ。そう、誤った方向へと再び・・・
現憲法は過去に誤った方向へと進んでしまった本国の反省を基に作られた、民主主義・平和主義の国家を目指すためのものであることを忘れてはならない。現憲法の主権在民といった原則などから考えても、今の投票率を無視した法案は意にそぐわない。せめて最低投票率の設定が必要である。技術のイノベーション(革新)の推進は認めても、現憲法のイノベーションは絶対に認めるべきではない。もし、国に重大な何かが起こったとしても、物事を推し進める者らは決してつらい状況には置かれない。つらい状況に置かれるのは、いつでも我々国民であることを老若男女を問わず忘れてはならない。また、国民投票の前段階である国会衆参通過(2/3以上で可決)は、我々国民が考えている以上に容易であることをここで付け加えておく。
次に、次の日曜日が投開票となる福島・沖縄の参院補選。その前に、記事にもある世論調査について疑問を投げ架けてみたい。私は今まで世論調査というものに遭遇したことがない。また、たとえその疑が晴れたとしても、じゃあ一体どういった時間帯に、またどういった地域に電話調査を実施しているのかということである。日中に単身世帯や共働き世帯に掛けたところで有効な回答を得られるはずがない。失礼かもしれないが、電話に出るとすれば政治について興味の薄いお年寄りや専業主婦ぐらいなもの。今回に限らず、今の世論調査の信憑性が極めて低いことは、大の大人でなくとも生徒・学生さんでも十分に解り得るはず。今のメディアが行う世論調査は、どうも国民の意思を誘導するためのものとしか思えないのである。さて、参院補選についてだが、どちらかと言えば私は沖縄の方を重要視している。心配しているといった方が近いかもしれない。記事の世論調査を信用したとして、沖縄県民は「基地問題」より「暮らしにかかわる政策」の方を重視している。どうだろう。この設問の設定自体がおかしいと私は思うのである。それはここで言う「基地問題」も「暮らしに関わる政策」の一部であると思うからである。基地は県民にとって生命・健康のリスクや珊瑚礁といった自然環境のリスクをも併せ持つ。今の国会では、憲法改正へのステップとして国民投票法案が推し進められている。もしも憲法9条が改憲されてしまうとしたら、そのリスクは間違いなく増大する。そうなってしまうと、もはや「暮らし」における格差是正や子育て支援どころの話ではなくなり、言わばサバイバル(生存、生き残り)の領域に達するだろう。現与党は沖縄に「交付金」という餌(家畜の食事)をぶら下げている、ということをくれぐれもお忘れなく。また、その交付金によって潤う、ごく限られた者らの姿を思い浮かべるべき。その者らの多くはメタボ体型であることは間違いないだろう。沖縄は今のタレント・アスリート育成といった方針を転換すべきであると思う。青い珊瑚礁とそれを映し出す透明度の高い海、そしてそこに棲む色とりどりの魚たち。そういった自然環境の中で、我々人間が共生を図る方法は、ごく限られているのではないかと私は考えるのである。得るにも、また逆に失うにも、あなた達の頭と心で悩むほどに考え、そして決めるべきである。
今回のボヤッキー 「世界に広げよう、友達の輪」
「日本沈没まで、あと97日」
Sunday, April 15, 2007
アジアの中の日本③
奈良時代、国家体制が整い皇族・貴族の権力が増大するにつれて非常に高度な貴族文化が起こりました。これを聖武(しょうむ)天皇在位時の年号である天平(てんぴょう)から「天平文化」と呼びます。白鳳(はくほう)文化同様中国に学び、その影響が大であったことは共通していますが、天平文化においては遣唐使などによってよりいっそう大規模に、国を挙げて唐の文化の輸入が行われました。その影響は建築や彫刻、絵画などのあらゆる面に取り入れられ、白鳳文化以上に大陸的かつ仏教色が強いものとなりました。
仏教が国家によって保護された結果、僧侶は仏教研究に打ち込み「南都六宗(なんとろくしゅう)」【三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)・律(りつ)・成実(じょうじつ)・倶舎(くしゃ)】と呼ばれる学派を生みました。これら仏教研究の発展は唐の僧・鑑真(がんじん)ら外国僧を始め、唐へ留学した学問僧たちによって押し進められました。一方で当時は禁じられていた民衆への自由な布教を求める僧・行基(ぎょうき)は広く老若男女に対し教えを広め、同時に貧窮病者(ひんきゅうびょうじゃ)の救済といった社会事業に当たりました。このような仏教隆盛(りゅうせい)の中で仏教美術も発展し、薬師寺金堂の薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)、東大寺戒壇院(とうだいじかいだんいん)の四天王像など写実的で生き生きとした仏像が多数制作されます。この時代の彫刻には従来の木像や金銅像だけでなく、塑像(そぞう)や漆(うるし)を使った乾漆像(かんしつぞう)など新たな仏像製作技法が現れました。彫刻以外での唐の新しい技術を取り入れた金工(きんこう)や漆工(しっこう)、染織(せんしょく)などの技術者がさまざまな工芸作品を手がけ、正倉院(しょうそういん)宝物として現在に伝えられています。この正倉院宝物の中にはインドやイスラム諸国、東ローマの影響を受けた工芸品も多く、世界の文化が唐を通じて日本へ流入していたことを示しています。
権威をほしいままにした関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)が891年に死去すると、宇多(うだ)天皇は摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)を置かず天皇による親政を行います。同時に門閥(もんばつ)などに関係なく実力のある者を登用しました。その代表者が学者・菅原道真(すがわらみちざね)です。道真は天皇の信任を得て昇進を続け、遣唐使の廃止など国政の改革に努めました。897年に宇多天皇から醍醐(だいご)天皇へと譲位が行われたときには藤原時平(ふじわらのときひら)と共に天皇の補佐を命じられ、後に右大臣に任ぜられます。この異例の大出世がねたまれたことと、藤原氏にとってじゃまな存在であったことが道真の不運でした。901年、道真は「醍醐天皇の廃位をたくらんだ」という疑いをかけられ突然大宰府(だざいふ)へ左遷(させん)されます。これはライバルであった左大臣・藤原時平の陰謀であり、道真の一族を始めその支持者もことごとく左遷されてしまいました。道真は後に大宰府で憤死(ふんし)。以降藤原時平を始め彼の血を引く皇太子・保明(やすあき)親王などが次々に不幸な死を遂げたため、「道真の怨霊(おんりょう)のしわざ」という噂が立ちました。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本)
今回のボヤッキー 「”菅(かん)”は菅原の”菅”、ご先祖様は藤原氏の陰謀で太宰府に流された菅原道真、作州の菅家一統の一派なのであります」
「日本沈没まで、あと98日」
奈良時代、国家体制が整い皇族・貴族の権力が増大するにつれて非常に高度な貴族文化が起こりました。これを聖武(しょうむ)天皇在位時の年号である天平(てんぴょう)から「天平文化」と呼びます。白鳳(はくほう)文化同様中国に学び、その影響が大であったことは共通していますが、天平文化においては遣唐使などによってよりいっそう大規模に、国を挙げて唐の文化の輸入が行われました。その影響は建築や彫刻、絵画などのあらゆる面に取り入れられ、白鳳文化以上に大陸的かつ仏教色が強いものとなりました。
仏教が国家によって保護された結果、僧侶は仏教研究に打ち込み「南都六宗(なんとろくしゅう)」【三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)・律(りつ)・成実(じょうじつ)・倶舎(くしゃ)】と呼ばれる学派を生みました。これら仏教研究の発展は唐の僧・鑑真(がんじん)ら外国僧を始め、唐へ留学した学問僧たちによって押し進められました。一方で当時は禁じられていた民衆への自由な布教を求める僧・行基(ぎょうき)は広く老若男女に対し教えを広め、同時に貧窮病者(ひんきゅうびょうじゃ)の救済といった社会事業に当たりました。このような仏教隆盛(りゅうせい)の中で仏教美術も発展し、薬師寺金堂の薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)、東大寺戒壇院(とうだいじかいだんいん)の四天王像など写実的で生き生きとした仏像が多数制作されます。この時代の彫刻には従来の木像や金銅像だけでなく、塑像(そぞう)や漆(うるし)を使った乾漆像(かんしつぞう)など新たな仏像製作技法が現れました。彫刻以外での唐の新しい技術を取り入れた金工(きんこう)や漆工(しっこう)、染織(せんしょく)などの技術者がさまざまな工芸作品を手がけ、正倉院(しょうそういん)宝物として現在に伝えられています。この正倉院宝物の中にはインドやイスラム諸国、東ローマの影響を受けた工芸品も多く、世界の文化が唐を通じて日本へ流入していたことを示しています。
権威をほしいままにした関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)が891年に死去すると、宇多(うだ)天皇は摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)を置かず天皇による親政を行います。同時に門閥(もんばつ)などに関係なく実力のある者を登用しました。その代表者が学者・菅原道真(すがわらみちざね)です。道真は天皇の信任を得て昇進を続け、遣唐使の廃止など国政の改革に努めました。897年に宇多天皇から醍醐(だいご)天皇へと譲位が行われたときには藤原時平(ふじわらのときひら)と共に天皇の補佐を命じられ、後に右大臣に任ぜられます。この異例の大出世がねたまれたことと、藤原氏にとってじゃまな存在であったことが道真の不運でした。901年、道真は「醍醐天皇の廃位をたくらんだ」という疑いをかけられ突然大宰府(だざいふ)へ左遷(させん)されます。これはライバルであった左大臣・藤原時平の陰謀であり、道真の一族を始めその支持者もことごとく左遷されてしまいました。道真は後に大宰府で憤死(ふんし)。以降藤原時平を始め彼の血を引く皇太子・保明(やすあき)親王などが次々に不幸な死を遂げたため、「道真の怨霊(おんりょう)のしわざ」という噂が立ちました。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本)
今回のボヤッキー 「”菅(かん)”は菅原の”菅”、ご先祖様は藤原氏の陰謀で太宰府に流された菅原道真、作州の菅家一統の一派なのであります」
「日本沈没まで、あと98日」
Saturday, April 14, 2007
ひとりごとⅦ⑤
創価学会池田会長発言 「庶民の王者」の意味不明
創価学会の池田大作名誉会長が、中国の温家宝首相と会談した際にした発言が波紋を呼んでいる。「うれしいです。庶民の王者に会ってくださ・・・」という一節だが、発言の語尾がはっきりしないため、さまざまな解釈、憶測が出ている。「庶民の王者に会ってください」といったというのが公式解釈だが、これは意味不明。ネット上では「庶民の王者である私に(首相が)会ってくださって」嬉しいのだと解されている。
ANNニュースは「庶民の味方である私と」
一部報道では「庶民の王者と会ってくださって」と解したようだ(ANNより)池田名誉会長は2007年4月12日、都内のホテルで温家宝首相と30分にわたり会談。冒頭がマスコミに公開され、池田氏は「閣下、光栄です。うれしいです。政治家ではなくて庶民の王者と会ってくださ・・・」などと温首相に対して語った。池田氏が要人と会談する様子をマスコミに公開するのは異例。しかし、この「庶民の王者と会ってくださ・・・」の末尾が聞き取りにくかったことから、話題を呼んでいる。テレビ朝日系のANNニュースは、池田氏の発言について次のようにテロップを入れた。「光栄です。うれしいです。政治家ではなく、庶民の味方である私と会っていただいて」
テレ朝の担当者には「嬉しいです。庶民の王者(である私)に会ってくださって」と聞こえ、それを「庶民の味方」と意訳したようだ。これが発端となったのか、ネット上では「嬉しいです。庶民の王者(である私)に会ってくださって」と池田氏が発言したとの見方が広がった。「本人に聞かないと分からないですね」
インターネットの掲示板2ちゃんねるでもANNニュースの動画へのリンクが貼られて、「創価学会の池田大作氏 『 閣下、光栄です。庶民の王者と会ってくださって 』…会談で挨拶」と題されたスレッドが6本以上立てられ、多くは「ずうずうしい」などの批判のコメントが書き込まれた。しかし、聖教新聞をはじめ、多くのメディアは「うれしいです。庶民の王者に会ってください」と記しており、「ください」と発言した、としている。 創価学会広報室はJ-CASTニュースに対し、「聞き取りにくかったかもしれませんが、あの発言は『 (庶民の王者と)会ってください 』と温首相にお願いしたものです」 といい、池田氏が自身を「庶民の王者」と述べたとする見方を全面否定した。ANNニュースのテロップについても「正確でない」と述べた。では「庶民の王者」とは一体誰のことなのか?「それは本人に聞かないと分からないですね~。あれから、私も誰だろうと考えているんですけど・・・。誰かいるんでしょうかね」 (2007年4月13日(金)J‐CASTニュース)
今回のボヤッキー 「我が日本の天然記念物に指定しようと考えているのであります」
「日本沈没まで、あと99日」
創価学会池田会長発言 「庶民の王者」の意味不明
創価学会の池田大作名誉会長が、中国の温家宝首相と会談した際にした発言が波紋を呼んでいる。「うれしいです。庶民の王者に会ってくださ・・・」という一節だが、発言の語尾がはっきりしないため、さまざまな解釈、憶測が出ている。「庶民の王者に会ってください」といったというのが公式解釈だが、これは意味不明。ネット上では「庶民の王者である私に(首相が)会ってくださって」嬉しいのだと解されている。
ANNニュースは「庶民の味方である私と」
一部報道では「庶民の王者と会ってくださって」と解したようだ(ANNより)池田名誉会長は2007年4月12日、都内のホテルで温家宝首相と30分にわたり会談。冒頭がマスコミに公開され、池田氏は「閣下、光栄です。うれしいです。政治家ではなくて庶民の王者と会ってくださ・・・」などと温首相に対して語った。池田氏が要人と会談する様子をマスコミに公開するのは異例。しかし、この「庶民の王者と会ってくださ・・・」の末尾が聞き取りにくかったことから、話題を呼んでいる。テレビ朝日系のANNニュースは、池田氏の発言について次のようにテロップを入れた。「光栄です。うれしいです。政治家ではなく、庶民の味方である私と会っていただいて」
テレ朝の担当者には「嬉しいです。庶民の王者(である私)に会ってくださって」と聞こえ、それを「庶民の味方」と意訳したようだ。これが発端となったのか、ネット上では「嬉しいです。庶民の王者(である私)に会ってくださって」と池田氏が発言したとの見方が広がった。「本人に聞かないと分からないですね」
インターネットの掲示板2ちゃんねるでもANNニュースの動画へのリンクが貼られて、「創価学会の池田大作氏 『 閣下、光栄です。庶民の王者と会ってくださって 』…会談で挨拶」と題されたスレッドが6本以上立てられ、多くは「ずうずうしい」などの批判のコメントが書き込まれた。しかし、聖教新聞をはじめ、多くのメディアは「うれしいです。庶民の王者に会ってください」と記しており、「ください」と発言した、としている。 創価学会広報室はJ-CASTニュースに対し、「聞き取りにくかったかもしれませんが、あの発言は『 (庶民の王者と)会ってください 』と温首相にお願いしたものです」 といい、池田氏が自身を「庶民の王者」と述べたとする見方を全面否定した。ANNニュースのテロップについても「正確でない」と述べた。では「庶民の王者」とは一体誰のことなのか?「それは本人に聞かないと分からないですね~。あれから、私も誰だろうと考えているんですけど・・・。誰かいるんでしょうかね」 (2007年4月13日(金)J‐CASTニュース)
今回のボヤッキー 「我が日本の天然記念物に指定しようと考えているのであります」
「日本沈没まで、あと99日」
Friday, April 13, 2007
アジアの中の日本②
4世紀の初め、中国の国内が乱れて力が一時弱まったため朝鮮半島の動きが活発になり、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)などが割拠(かっきょ)しました。日本(倭)は半島南部の小国が分立し、政治的に不安定な位置にあった伽耶(かや)と古くから関わっていました。次いで、高句麗の南下にともなって、百済とも密接な関係を持つようになります。百済王は倭と同盟を結び高句麗に当たろうと考え、372年に「七支刀(しちしとう)」を倭に贈りました。奈良県の石上(いそのかみ)神宮に保管されている国宝・七支刀がこのとき贈られた物であるとされており、刀身の金像嵌(ぞうがん)された銘文から、倭と百済の間にはほぼ対等の同盟関係が結ばれていたものと推測されています。このような関係から倭は朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦火を交えていたようです。この戦乱は倭に多くの避難民=渡来人をもたらし、倭の文化・技術を向上させる結果となりました。
5世紀に入ると倭が再び中国に朝貢(ちょうこう)※1を開始したことが中国南朝・宋(そう)の史書「宋書(そうじょ)」倭国伝(わこくでん)に記されています。それによると約百年間に「讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)」という”倭の五王”が相次いで使者を送ったとされています。済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、武は雄略天皇に比定されていますが、讃には応神(おうじん)、仁徳(にんとく)、履中(りちゅう)天皇とする説があり、珍についても仁徳、反正(はんぜい)天皇説があり、はっきりとはしていません。
朝鮮半島から大挙渡ってきた渡来人たちは、日本に大陸のさまざまな進んだ文化や技術を伝えました。後に記された「古事記(こじき)」「日本書紀(にほんしょき)」の中の伝承では、応神天皇の時期に秦(はた)氏(新羅系)、漢(あや)氏(百済系)、西文(かわちのふみ)氏(百済系)など有力な氏族の祖先が日本に渡ったと伝えています。「漢字」(文字)が伝えられたのもこの頃で、対外的な文書の作成はもちろん、漢字の音(おん)を借りて日本語を書き表すということも行われるようになりました。雄略天皇の時代に入るとさらに百済、伽耶(かや)から集団で移住が行われ、鉄の鋳造技術や機(はた)織り、新たな農法などが技術者集団によって伝えられます。これら渡来人のもたらす技術を独占・管理することにより、大和政権の軍事力や農業生産力は格段の進歩を遂げ、5世紀の後半頃から大王(おおきみ:天皇)に絶大な権力を与え、同時に大和政権の地方進出も本格化していくことになるのです。
飛鳥(あすか)文化は6世紀後半から7世紀中期にかけて政治の中心地であった飛鳥を中心として栄えた日本初の仏教文化で、中国南北朝の影響を強く受けた造寺・造仏が行われた点に特徴があります。飛鳥文化は推古天皇とその摂政(せっしょう)・聖徳太子(しょうとくたいし)の時代に大きく花開きます。渡来人によって6世紀中頃にもたらされた仏教は、当初は彼らと関わりの深かった蘇我(そが)氏が中心となって信仰していました。しかし蘇我氏及び聖徳太子が政治の実権を握るにいたって手厚く保護され、またたく間に浸透・発展してゆきます。これは仏教文化を積極的に導入した聖徳太子の力によるところが大きく、渡来人により朝鮮半島を経由して導入される以外にも、太子が派遣した遣隋使(けんずいし)によって直接輸入されたことによりいっそう発展したことは間違いありません。飛鳥文化は当時の先進国である中国から輸入された文化を日本において消化しようとしたもので、それ以前の古墳文化とは比べものにならないほど高度で国際色に満ちた文化であると言えます。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本)
※1朝貢:外国人が来朝して貢物(みつぎもの)を奉(ささげ)ること。
「日本沈没まで、あと100日」
4世紀の初め、中国の国内が乱れて力が一時弱まったため朝鮮半島の動きが活発になり、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)などが割拠(かっきょ)しました。日本(倭)は半島南部の小国が分立し、政治的に不安定な位置にあった伽耶(かや)と古くから関わっていました。次いで、高句麗の南下にともなって、百済とも密接な関係を持つようになります。百済王は倭と同盟を結び高句麗に当たろうと考え、372年に「七支刀(しちしとう)」を倭に贈りました。奈良県の石上(いそのかみ)神宮に保管されている国宝・七支刀がこのとき贈られた物であるとされており、刀身の金像嵌(ぞうがん)された銘文から、倭と百済の間にはほぼ対等の同盟関係が結ばれていたものと推測されています。このような関係から倭は朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦火を交えていたようです。この戦乱は倭に多くの避難民=渡来人をもたらし、倭の文化・技術を向上させる結果となりました。
5世紀に入ると倭が再び中国に朝貢(ちょうこう)※1を開始したことが中国南朝・宋(そう)の史書「宋書(そうじょ)」倭国伝(わこくでん)に記されています。それによると約百年間に「讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)」という”倭の五王”が相次いで使者を送ったとされています。済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、武は雄略天皇に比定されていますが、讃には応神(おうじん)、仁徳(にんとく)、履中(りちゅう)天皇とする説があり、珍についても仁徳、反正(はんぜい)天皇説があり、はっきりとはしていません。
朝鮮半島から大挙渡ってきた渡来人たちは、日本に大陸のさまざまな進んだ文化や技術を伝えました。後に記された「古事記(こじき)」「日本書紀(にほんしょき)」の中の伝承では、応神天皇の時期に秦(はた)氏(新羅系)、漢(あや)氏(百済系)、西文(かわちのふみ)氏(百済系)など有力な氏族の祖先が日本に渡ったと伝えています。「漢字」(文字)が伝えられたのもこの頃で、対外的な文書の作成はもちろん、漢字の音(おん)を借りて日本語を書き表すということも行われるようになりました。雄略天皇の時代に入るとさらに百済、伽耶(かや)から集団で移住が行われ、鉄の鋳造技術や機(はた)織り、新たな農法などが技術者集団によって伝えられます。これら渡来人のもたらす技術を独占・管理することにより、大和政権の軍事力や農業生産力は格段の進歩を遂げ、5世紀の後半頃から大王(おおきみ:天皇)に絶大な権力を与え、同時に大和政権の地方進出も本格化していくことになるのです。
飛鳥(あすか)文化は6世紀後半から7世紀中期にかけて政治の中心地であった飛鳥を中心として栄えた日本初の仏教文化で、中国南北朝の影響を強く受けた造寺・造仏が行われた点に特徴があります。飛鳥文化は推古天皇とその摂政(せっしょう)・聖徳太子(しょうとくたいし)の時代に大きく花開きます。渡来人によって6世紀中頃にもたらされた仏教は、当初は彼らと関わりの深かった蘇我(そが)氏が中心となって信仰していました。しかし蘇我氏及び聖徳太子が政治の実権を握るにいたって手厚く保護され、またたく間に浸透・発展してゆきます。これは仏教文化を積極的に導入した聖徳太子の力によるところが大きく、渡来人により朝鮮半島を経由して導入される以外にも、太子が派遣した遣隋使(けんずいし)によって直接輸入されたことによりいっそう発展したことは間違いありません。飛鳥文化は当時の先進国である中国から輸入された文化を日本において消化しようとしたもので、それ以前の古墳文化とは比べものにならないほど高度で国際色に満ちた文化であると言えます。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本)
※1朝貢:外国人が来朝して貢物(みつぎもの)を奉(ささげ)ること。
「日本沈没まで、あと100日」
Thursday, April 12, 2007
ひとりごとⅦ④
11日の安倍晋三首相と中国の温家宝首相との会談要旨は次の通り。
【日中関係】
安倍氏 政治と経済の車輪を力強く回し、日中関係をさらに高度な次元に高めていきたい。
温氏 今年は国交正常化35周年で関係の改善と発展の大きなチャンスだが、道険しい面もある。関係を安定的な軌道に乗せる必要がある。
安倍氏 首脳往来を積み重ねることが重要だ。今年中に私の訪中を実現したい。胡錦濤(こ きんとう)国家主席も来年早期に来日して欲しい。
温氏 胡主席の訪日を積極的に検討したい。
【歴史認識】
温氏 歴史認識問題がうまく処理できれば日中関係の良い政治的基盤となり、できなければ障害になる。歴史問題への善処が非常に重要だ。
安倍氏 日本が平和国家として歩んでいくことが私の気持ちであり、歴史認識そのものだ。
(以下省略)
一方、今日の国会では国民投票法案に関する強行採決が与党(自・公)の賛成多数によってなされ、明日、13日(金)にも衆議院を通過する模様。
今回のボヤッキー 「ナントカ農水相の政務調査費白紙問題でポチっとな」
「日本沈没まで、あと101日」
11日の安倍晋三首相と中国の温家宝首相との会談要旨は次の通り。
【日中関係】
安倍氏 政治と経済の車輪を力強く回し、日中関係をさらに高度な次元に高めていきたい。
温氏 今年は国交正常化35周年で関係の改善と発展の大きなチャンスだが、道険しい面もある。関係を安定的な軌道に乗せる必要がある。
安倍氏 首脳往来を積み重ねることが重要だ。今年中に私の訪中を実現したい。胡錦濤(こ きんとう)国家主席も来年早期に来日して欲しい。
温氏 胡主席の訪日を積極的に検討したい。
【歴史認識】
温氏 歴史認識問題がうまく処理できれば日中関係の良い政治的基盤となり、できなければ障害になる。歴史問題への善処が非常に重要だ。
安倍氏 日本が平和国家として歩んでいくことが私の気持ちであり、歴史認識そのものだ。
(以下省略)
一方、今日の国会では国民投票法案に関する強行採決が与党(自・公)の賛成多数によってなされ、明日、13日(金)にも衆議院を通過する模様。
今回のボヤッキー 「ナントカ農水相の政務調査費白紙問題でポチっとな」
「日本沈没まで、あと101日」
Wednesday, April 11, 2007
アジアの中の日本①
混迷の度合いを深める日本の政治・経済・外交は、内外に多くの問題を抱えている。そのせいか、日本の将来を悲観する向きが少なくない。
「日本はあと、20年もたないのではないか」
著者も内心、思うことがある。不安の時代、人々は歴史に学ぼうと考える。未来を予知し得ないわれわれは、過去の”歴史”=経験則に学ぶほか、いかなる有効な手段も持たないのだから、歴史に学ぶこと、それ自体の意義ははかり知れないほど大きい。だが、歴史に学ぶということは、口でいうほど容易(たやす)くはなかった。
稲の栽培はインド・アッサム地方から中国・雲南省にいたる広い地域が起源と考えられています。また短粒種(ジャポニカ米)は中国の長江(ちょうこう)中・下流の江南地方、長粒種(インディカ米)は東南アジアに起源があるとする説も発表されています。日本には野生の稲が存在しないため外部から渡来したものであることは確実であり、その伝播(でんぱ)ルートには現在3つの説があります。朝鮮半島から伝えられたとする説、長江の南から直接伝えられたとする説、そして南西諸島を通じいわゆる「海上の道」を通って伝えられたとする説です。
弥生時代は紀元前3世紀頃までとされており、前期、中期、後期に分けられています。この時期、中国大陸や朝鮮半島を通じて水田稲作農業や金属加工技術が日本列島にもたらされ、本格的な定住生活と食料の生産が開始されました。稲作に関しては、縄文時代晩期の遺跡からその痕跡(こんせき)が発見されており、かなり早くから行われていたことが判明してはいますが、本格化したのは弥生以降と考えるべきでしょう。
古代日本が小国に分立していた紀元前1世紀頃のことを知るには中国の歴史書に頼るほかありません。日本を表す「倭(わ)」が最初に登場するのは前漢の史書である「漢書(かんじょ)」の地理志(ちりし)の次のような短い記述です。
「夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中に倭人有り。分れて百余国と為(な)る。歳時(さいじ)を以(もっ)て献見(けんけん)すと云(い)ふ」
つまり、当時日本は百ほどの小国に分かれており、定期的に楽浪郡(前漢の武帝が置いた朝鮮半島の郡のひとつで、現在の平壌近辺とされる)に対して使者を送っていたというのです。
後漢が滅びると中国は「魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)」の三国時代となります。この時代を記した「三国志(さんごくし)」の中の「倭人の条」、俗(ぞく)に言う「魏志倭人伝」には2千字におよぶ日本の記述があり、ここに初めて邪馬台国(やまたいこく)が登場します。そこには、「2世紀後半に起こった倭の大乱は諸国が共同で邪馬台国に女王・卑弥呼(ひみこ)を立てたことによって治まり、30か国ほどの小国連合が生まれた。卑弥呼は呪術(じゅじゅつ)を行って人心を掌握(しょうあく)し、その弟が政治を補佐した」と記述されています。また卑弥呼は239年に魏へ使者を送り「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、銅鏡100枚を皇帝から贈られたとされており、この鏡こそ畿内(きない)を中心に発見されている「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」であるとする説があります。魏志倭人伝には卑弥呼の死後、卑弥呼の宗女(そうじょ)で13歳の壱与(いよ)が邪馬台国の女王になったと記されていますが、この後中国への使者は一度送られただけで途絶えたため以後日本に関する文献はありません。このため4世紀の日本を知る手がかりは全く存在せず、邪馬台国の行く末や、後に成立した大和政権との関係などは謎のままとなってしまいました。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本 加来耕三 監修 岸 裕二 著)
今回のボヤッキー 「靖国へGO!」
「日本沈没まで、あと102日」
混迷の度合いを深める日本の政治・経済・外交は、内外に多くの問題を抱えている。そのせいか、日本の将来を悲観する向きが少なくない。
「日本はあと、20年もたないのではないか」
著者も内心、思うことがある。不安の時代、人々は歴史に学ぼうと考える。未来を予知し得ないわれわれは、過去の”歴史”=経験則に学ぶほか、いかなる有効な手段も持たないのだから、歴史に学ぶこと、それ自体の意義ははかり知れないほど大きい。だが、歴史に学ぶということは、口でいうほど容易(たやす)くはなかった。
稲の栽培はインド・アッサム地方から中国・雲南省にいたる広い地域が起源と考えられています。また短粒種(ジャポニカ米)は中国の長江(ちょうこう)中・下流の江南地方、長粒種(インディカ米)は東南アジアに起源があるとする説も発表されています。日本には野生の稲が存在しないため外部から渡来したものであることは確実であり、その伝播(でんぱ)ルートには現在3つの説があります。朝鮮半島から伝えられたとする説、長江の南から直接伝えられたとする説、そして南西諸島を通じいわゆる「海上の道」を通って伝えられたとする説です。
弥生時代は紀元前3世紀頃までとされており、前期、中期、後期に分けられています。この時期、中国大陸や朝鮮半島を通じて水田稲作農業や金属加工技術が日本列島にもたらされ、本格的な定住生活と食料の生産が開始されました。稲作に関しては、縄文時代晩期の遺跡からその痕跡(こんせき)が発見されており、かなり早くから行われていたことが判明してはいますが、本格化したのは弥生以降と考えるべきでしょう。
古代日本が小国に分立していた紀元前1世紀頃のことを知るには中国の歴史書に頼るほかありません。日本を表す「倭(わ)」が最初に登場するのは前漢の史書である「漢書(かんじょ)」の地理志(ちりし)の次のような短い記述です。
「夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中に倭人有り。分れて百余国と為(な)る。歳時(さいじ)を以(もっ)て献見(けんけん)すと云(い)ふ」
つまり、当時日本は百ほどの小国に分かれており、定期的に楽浪郡(前漢の武帝が置いた朝鮮半島の郡のひとつで、現在の平壌近辺とされる)に対して使者を送っていたというのです。
後漢が滅びると中国は「魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)」の三国時代となります。この時代を記した「三国志(さんごくし)」の中の「倭人の条」、俗(ぞく)に言う「魏志倭人伝」には2千字におよぶ日本の記述があり、ここに初めて邪馬台国(やまたいこく)が登場します。そこには、「2世紀後半に起こった倭の大乱は諸国が共同で邪馬台国に女王・卑弥呼(ひみこ)を立てたことによって治まり、30か国ほどの小国連合が生まれた。卑弥呼は呪術(じゅじゅつ)を行って人心を掌握(しょうあく)し、その弟が政治を補佐した」と記述されています。また卑弥呼は239年に魏へ使者を送り「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、銅鏡100枚を皇帝から贈られたとされており、この鏡こそ畿内(きない)を中心に発見されている「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」であるとする説があります。魏志倭人伝には卑弥呼の死後、卑弥呼の宗女(そうじょ)で13歳の壱与(いよ)が邪馬台国の女王になったと記されていますが、この後中国への使者は一度送られただけで途絶えたため以後日本に関する文献はありません。このため4世紀の日本を知る手がかりは全く存在せず、邪馬台国の行く末や、後に成立した大和政権との関係などは謎のままとなってしまいました。
(引用文献:手にとるように日本史がわかる本 加来耕三 監修 岸 裕二 著)
今回のボヤッキー 「靖国へGO!」
「日本沈没まで、あと102日」
Tuesday, April 10, 2007
ひとりごとⅦ③
明日、中国の温家宝(おん かほう)首相が来日されます。これを機に日中関係が改善されてゆくことを願います。私は今一度、日本と隣国との関係について勉強してみようと思っています。今学年から歴史の勉強をされる児童や生徒、学生さんは学校から配られる教科書だけに留(とど)まらず、敢(あ)えて教科書以外の文献(ぶんけん)も加え、将来の日本のために「本当の歴史」を勉強して欲しいと思います。
「南京大虐殺はなかった」=自民県議が発言、審議中断-熊本
開会中の熊本県議会の本会議で6日、八浪知行県議(自民)が「南京大虐殺とか従軍慰安婦はなかった」「中国人はうそつき」などと一般質問の中で発言し、審議が一時中断する場面があった。同議員は教科書問題について言及しながら「(南京大虐殺を)絶対にやっていないことは分かっている。南京大虐殺とか従軍慰安婦とかうそをつく教科書は許せない」などと述べ、潮谷義子知事に見解を求めた。潮谷知事は「知事という立場で公式の場でこの問題についてお答えすることは控えるべきだと思う」と答弁した。(2007/03/06-13:04 時事ドットコム)
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。 (平成5年8月4日)
靖国戦犯合祀資料
うそをつく。過ちを認めず耳をふさぐ。それが子どもの所業なら穏やかに諭し、許せもする。だが国家が過ちを繰り返して民を苦しめるとあっては見すごせない。国がそう指弾されるケースが続く。原爆症認定訴訟で先週、申請却下処分の取り消しを命じる判決が相次いだ。国の五連敗だ。薬害肝炎訴訟は三つ目の地裁判決が出てすべて敗訴。トンネルじん肺訴訟はおとといの徳島地裁で四連敗。規制を怠ったのを違法とする流れが鮮明になるなか、きょうは松山地裁で判決がある。一方、外務省機密漏洩(ろうえい)事件では元記者の賠償請求を退けた。門前払いには幻滅するが、沖縄返還密約の存在は動かしがたい。米公文書が裏付け、元外務省局長も証言した。それでも認めない国はうそを上塗りするに等しい。今度は憲法を踏みにじっていた疑いが出てきた。国立国会図書館が公開した靖国神社からの提供資料で、旧厚生省がBC級戦犯の合祀(ごうし)を神社側に働きかけた生々しいやりとりが浮かび上がった。A級戦犯も「合祀可」だが「外部公表は避ける」との記述。世論への警戒だけでなく政教分離に触れる自覚があったようにも読める。日中歴史共同研究を進める安倍晋三首相は厚生労働省にも資料を公開させ、国の握る真相を明らかにすべきだ。愛媛玉ぐし料訴訟での最高裁の違憲判決から十年という巡り合わせは因果だろうか。分祀、国営化―と昨年の自民党総裁選で盛んだった靖国論議はすっかり下火だ。公開資料は政治の怠慢をしかるようでもある。 (3月30日 愛媛新聞)
今回のボヤッキー 「美しい国、日本へようこそ」
「日本沈没まで、あと103日」
明日、中国の温家宝(おん かほう)首相が来日されます。これを機に日中関係が改善されてゆくことを願います。私は今一度、日本と隣国との関係について勉強してみようと思っています。今学年から歴史の勉強をされる児童や生徒、学生さんは学校から配られる教科書だけに留(とど)まらず、敢(あ)えて教科書以外の文献(ぶんけん)も加え、将来の日本のために「本当の歴史」を勉強して欲しいと思います。
「南京大虐殺はなかった」=自民県議が発言、審議中断-熊本
開会中の熊本県議会の本会議で6日、八浪知行県議(自民)が「南京大虐殺とか従軍慰安婦はなかった」「中国人はうそつき」などと一般質問の中で発言し、審議が一時中断する場面があった。同議員は教科書問題について言及しながら「(南京大虐殺を)絶対にやっていないことは分かっている。南京大虐殺とか従軍慰安婦とかうそをつく教科書は許せない」などと述べ、潮谷義子知事に見解を求めた。潮谷知事は「知事という立場で公式の場でこの問題についてお答えすることは控えるべきだと思う」と答弁した。(2007/03/06-13:04 時事ドットコム)
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。 (平成5年8月4日)
靖国戦犯合祀資料
うそをつく。過ちを認めず耳をふさぐ。それが子どもの所業なら穏やかに諭し、許せもする。だが国家が過ちを繰り返して民を苦しめるとあっては見すごせない。国がそう指弾されるケースが続く。原爆症認定訴訟で先週、申請却下処分の取り消しを命じる判決が相次いだ。国の五連敗だ。薬害肝炎訴訟は三つ目の地裁判決が出てすべて敗訴。トンネルじん肺訴訟はおとといの徳島地裁で四連敗。規制を怠ったのを違法とする流れが鮮明になるなか、きょうは松山地裁で判決がある。一方、外務省機密漏洩(ろうえい)事件では元記者の賠償請求を退けた。門前払いには幻滅するが、沖縄返還密約の存在は動かしがたい。米公文書が裏付け、元外務省局長も証言した。それでも認めない国はうそを上塗りするに等しい。今度は憲法を踏みにじっていた疑いが出てきた。国立国会図書館が公開した靖国神社からの提供資料で、旧厚生省がBC級戦犯の合祀(ごうし)を神社側に働きかけた生々しいやりとりが浮かび上がった。A級戦犯も「合祀可」だが「外部公表は避ける」との記述。世論への警戒だけでなく政教分離に触れる自覚があったようにも読める。日中歴史共同研究を進める安倍晋三首相は厚生労働省にも資料を公開させ、国の握る真相を明らかにすべきだ。愛媛玉ぐし料訴訟での最高裁の違憲判決から十年という巡り合わせは因果だろうか。分祀、国営化―と昨年の自民党総裁選で盛んだった靖国論議はすっかり下火だ。公開資料は政治の怠慢をしかるようでもある。 (3月30日 愛媛新聞)
今回のボヤッキー 「美しい国、日本へようこそ」
「日本沈没まで、あと103日」
Sunday, April 08, 2007
ひとりごとⅦ②
統一地方選挙 2007
いよいよ13都道県知事選挙の投開票です。どの候補者に投票するのか、正直、私は未だ決めかねています。「ナントカ還元水」やら「2億円を超える出張費」など、政治家としての資質が問われる問題が多過ぎであり、またその程度も考えられないほどに酷いものであるからだ。さらにそれらの事実を主権者である国民に伝える役目を持つメディアさえもが、その存在意義を問われるような数々の問題を起こしている。今では歪曲や捏造といったものが当たり前のこととなっており、報道機関としての信頼が大きく揺らいでいます。とくに世論調査。何故に各新聞、各放送局で数字がバラつくのでしょう。「大数の法則」が反映されないほど中途半端な数の調査であるならば、かえってやらない方が良い。国民を惑わすだけだ。もし万が一、それを狙いとして掲載や報道をしているのであれば、そういった報道機関は淘汰されるべきである。また、政治や思想には右、または左と有るようだが、現代の国民、特に若い世代はそういったものなど、気にしていないのではないだろうか。ただ、純粋に世の中の事実を知りたい。それが普通なのではないだろうか。ちなみに、▲▲党の××××××長は某新聞社のOBです。そう考えたくもありませんが、そういうことまで考えなければいけない社会へと、▲▲党を初めとする今の与党が変えてしまったのです。「汚い国、日本(ジャバん)」へと。今の日本は政教分離と政財分離を、もはや我々国民の手によって推し進めなければいけない時に来ているのかもしれません。
今の政界を考えれば、「消去法」が唯一有効な選考手段であると言えるのかもしれません。この消去法により、私は2人にまで絞ることができました。変化を恐れていては物事を変えることなど、到底できませんからね。
さあ、投票へ向けて発信♪
「日本沈没まで、あと105日」
統一地方選挙 2007
いよいよ13都道県知事選挙の投開票です。どの候補者に投票するのか、正直、私は未だ決めかねています。「ナントカ還元水」やら「2億円を超える出張費」など、政治家としての資質が問われる問題が多過ぎであり、またその程度も考えられないほどに酷いものであるからだ。さらにそれらの事実を主権者である国民に伝える役目を持つメディアさえもが、その存在意義を問われるような数々の問題を起こしている。今では歪曲や捏造といったものが当たり前のこととなっており、報道機関としての信頼が大きく揺らいでいます。とくに世論調査。何故に各新聞、各放送局で数字がバラつくのでしょう。「大数の法則」が反映されないほど中途半端な数の調査であるならば、かえってやらない方が良い。国民を惑わすだけだ。もし万が一、それを狙いとして掲載や報道をしているのであれば、そういった報道機関は淘汰されるべきである。また、政治や思想には右、または左と有るようだが、現代の国民、特に若い世代はそういったものなど、気にしていないのではないだろうか。ただ、純粋に世の中の事実を知りたい。それが普通なのではないだろうか。ちなみに、▲▲党の××××××長は某新聞社のOBです。そう考えたくもありませんが、そういうことまで考えなければいけない社会へと、▲▲党を初めとする今の与党が変えてしまったのです。「汚い国、日本(ジャバん)」へと。今の日本は政教分離と政財分離を、もはや我々国民の手によって推し進めなければいけない時に来ているのかもしれません。
今の政界を考えれば、「消去法」が唯一有効な選考手段であると言えるのかもしれません。この消去法により、私は2人にまで絞ることができました。変化を恐れていては物事を変えることなど、到底できませんからね。
さあ、投票へ向けて発信♪
「日本沈没まで、あと105日」
Saturday, April 07, 2007
ひとりごとⅦ①
民放連とNHKが反対…捏造対策で閣議決定、放送法改正案
政府が閣議決定した放送法改正案に、捏造(ねつぞう)番組を放送した放送局に再発防止計画の提出を求める新制度が盛り込まれたことを受け、民放連とNHKは6日、反対や懸念のコメントを発表した。広瀬道貞民放連会長は「新法案は報道と表現の自由という市民社会の基盤を損ねる。処分の要件が極めてあいまいで、あらゆる番組に総務大臣が介入する道を開くことになり、強く反対する」とコメント。NHK広報局は「行政機関が、取材や制作の仕方に踏み込んで是非を判断し編集過程そのものに関与することになりかねず、表現の自由が損なわれることにつながる」との懸念を示した。
(ZAKZAK 2007/04/06)
2ちゃんねる【世論調査】石原都政「積極評価」は2割未満、消極的評価が5割、評価しないが3割 五輪招致「反対」が52% ★
2ちゃんねる【都知事選】下北沢で「石原帰れ!」コールがこだま 再開発計画反対派のヤジに石原氏(74)が「多数決なんだから!」とブチ切れ★
純粋に自らの意志で立候補してくる今時の政治家など、全くもって信用できない。自分が国民や住民の負託に十分応えられる人間かどうかなんて判らない、といったのが普通なのではないかと私は思う。小学校や中学校において、純粋な気持ちで学級委員長や生徒会長を決める時のような、周りの人からの推薦があって初めて立候補するといったものが本来あるべき姿ではないのだろうか。推薦にしても、支援にしても、その候補者のバックにはどういった人達がいるのかをよく考えて投票しなければ、結果的に自分を自らの手で政治不信に陥れてしまうことになりかねない。政治とは本来、高貴なものであり、また地味なものであるはずだ。清き一票は、候補者・支援者らの茶番やメディア・マスゴミの誘導に惑わされることなく、あくまでも自分の判断で投じなければならない。
「東京をお願いします」と。
「日本沈没まで、あと106日」
民放連とNHKが反対…捏造対策で閣議決定、放送法改正案
政府が閣議決定した放送法改正案に、捏造(ねつぞう)番組を放送した放送局に再発防止計画の提出を求める新制度が盛り込まれたことを受け、民放連とNHKは6日、反対や懸念のコメントを発表した。広瀬道貞民放連会長は「新法案は報道と表現の自由という市民社会の基盤を損ねる。処分の要件が極めてあいまいで、あらゆる番組に総務大臣が介入する道を開くことになり、強く反対する」とコメント。NHK広報局は「行政機関が、取材や制作の仕方に踏み込んで是非を判断し編集過程そのものに関与することになりかねず、表現の自由が損なわれることにつながる」との懸念を示した。
(ZAKZAK 2007/04/06)
2ちゃんねる【世論調査】石原都政「積極評価」は2割未満、消極的評価が5割、評価しないが3割 五輪招致「反対」が52% ★
2ちゃんねる【都知事選】下北沢で「石原帰れ!」コールがこだま 再開発計画反対派のヤジに石原氏(74)が「多数決なんだから!」とブチ切れ★
純粋に自らの意志で立候補してくる今時の政治家など、全くもって信用できない。自分が国民や住民の負託に十分応えられる人間かどうかなんて判らない、といったのが普通なのではないかと私は思う。小学校や中学校において、純粋な気持ちで学級委員長や生徒会長を決める時のような、周りの人からの推薦があって初めて立候補するといったものが本来あるべき姿ではないのだろうか。推薦にしても、支援にしても、その候補者のバックにはどういった人達がいるのかをよく考えて投票しなければ、結果的に自分を自らの手で政治不信に陥れてしまうことになりかねない。政治とは本来、高貴なものであり、また地味なものであるはずだ。清き一票は、候補者・支援者らの茶番やメディア・マスゴミの誘導に惑わされることなく、あくまでも自分の判断で投じなければならない。
「東京をお願いします」と。
「日本沈没まで、あと106日」
Friday, April 06, 2007
ひとりごとⅥ⑳
赤・青・緑、あなたは何色が好きですか。
私たちは数ある色(彩)それぞれにイメージを持っており、また、それらは私たちに様々なものを連想させてくれます。例えば、赤なら「情熱的」、「攻撃的」といったイメージを持ち、「太陽」であるとか「血」や「薔薇(ばら)」を連想させます。また、青であれば「冷静沈着」、「クール」といったイメージで、「水」であるとか「海」や「空」を連想させます。さらに、緑であれば「平和」、「未熟」といったイメージがあり、「草木」や「森林」を連想させます。色彩は私たちの普段の生活の中に、溢れるほど存在しています。しかしながら、日頃、何かに追いまくられていたり、または精神が落ち込み、自分の足元ばかりを見ているようだと、ついついそれを見過ごしてしまいます。ほんの少し、ほんの少しだけ自分の周りを意識してみることで、今まで目に入ってこなかった何かに気付くことができるかもしれません。
お花屋さんの赤を始めとする、
色とりどりの花たちに目を向けてみる。
歩く足をちょっと止めて、
青く晴れわたった空を見上げてみる。
都会の喧騒に疲れたら、
緑あふれる公園を歩いてみる。
色(彩)を巧く普段の生活に取り入れてゆきたいものです。ところで、色(彩)にはトーンというものがあります。これは色の調子を意味し、明度と彩度によって変化します。
■+□=■ → ■+□+・・・・・□
■+□=■ → ■+□+・・・・・□
■+□=■ → ■+□+・・・・・□
赤・青・緑といった原色に白(□)を加えてみると、どの原色も明るさを増し、さらに加えると爽(さわ)やかさのある、優しい色へと変化し、限りなく白へと近付いてゆきます。赤い潰した苺(いちご)に白いミルクを加えるとピンクの苺ミルクの色に、透き通った緑色のソーダ水に白いアイスクリームが溶けるとペパーミントのクリームソーダの色に、といった具合。どちらも柔らか味があって、甘ぁ~く優しい色になります。ちなみに白には「清潔」や「純粋」といったイメージがあり、「雪」や「ウェディングドレス」といった純白、汚れ無きものを連想させます。
■+■=■ → ■+■+・・・・・■
■+■=■ → ■+■+・・・・・■
■+■=■ → ■+■+・・・・・■
この3色に黒(■)を加えてみると、今度はどの原色も深みを増し、さらに加えると重苦しさのある、陰気な色へと変化し、限りなく黒へと近付いてゆきます。赤は静脈を流れる汚れ切った血の色へ、緑は光が届かず朽(く)ちてゆく草木の色へ。目立たぬよう潜(ひそ)んで暮らしてゆくには良いのかもしれません。
□+■=■ → ■+□+□+□=■
図工や美術の水彩画で、誤って黒の絵具を多く混ぜてしまい、パレットのその部分を無駄にしてしまった覚えがあります。一度でも黒に染まってしまった色に、もう一度明るさを取り戻させるのは大変なことです。パレットの絵具は水に流すことができます。しかし、そうできないものも世の中にはあるのです。
さて、今のあなたはどのような色が好きですか。
この先、あなたはどのような色を奏でたいですか。
今のあなたはどのような色に映っているのでしょうか。
今回のボヤッキー 「今の私は何色なのでしょうか。今回の選挙で教えて欲しいと考えるのであります」
「日本沈没まで、あと107日」
赤・青・緑、あなたは何色が好きですか。
私たちは数ある色(彩)それぞれにイメージを持っており、また、それらは私たちに様々なものを連想させてくれます。例えば、赤なら「情熱的」、「攻撃的」といったイメージを持ち、「太陽」であるとか「血」や「薔薇(ばら)」を連想させます。また、青であれば「冷静沈着」、「クール」といったイメージで、「水」であるとか「海」や「空」を連想させます。さらに、緑であれば「平和」、「未熟」といったイメージがあり、「草木」や「森林」を連想させます。色彩は私たちの普段の生活の中に、溢れるほど存在しています。しかしながら、日頃、何かに追いまくられていたり、または精神が落ち込み、自分の足元ばかりを見ているようだと、ついついそれを見過ごしてしまいます。ほんの少し、ほんの少しだけ自分の周りを意識してみることで、今まで目に入ってこなかった何かに気付くことができるかもしれません。
お花屋さんの赤を始めとする、
色とりどりの花たちに目を向けてみる。
歩く足をちょっと止めて、
青く晴れわたった空を見上げてみる。
都会の喧騒に疲れたら、
緑あふれる公園を歩いてみる。
色(彩)を巧く普段の生活に取り入れてゆきたいものです。ところで、色(彩)にはトーンというものがあります。これは色の調子を意味し、明度と彩度によって変化します。
■+□=■ → ■+□+・・・・・□
■+□=■ → ■+□+・・・・・□
■+□=■ → ■+□+・・・・・□
赤・青・緑といった原色に白(□)を加えてみると、どの原色も明るさを増し、さらに加えると爽(さわ)やかさのある、優しい色へと変化し、限りなく白へと近付いてゆきます。赤い潰した苺(いちご)に白いミルクを加えるとピンクの苺ミルクの色に、透き通った緑色のソーダ水に白いアイスクリームが溶けるとペパーミントのクリームソーダの色に、といった具合。どちらも柔らか味があって、甘ぁ~く優しい色になります。ちなみに白には「清潔」や「純粋」といったイメージがあり、「雪」や「ウェディングドレス」といった純白、汚れ無きものを連想させます。
■+■=■ → ■+■+・・・・・■
■+■=■ → ■+■+・・・・・■
■+■=■ → ■+■+・・・・・■
この3色に黒(■)を加えてみると、今度はどの原色も深みを増し、さらに加えると重苦しさのある、陰気な色へと変化し、限りなく黒へと近付いてゆきます。赤は静脈を流れる汚れ切った血の色へ、緑は光が届かず朽(く)ちてゆく草木の色へ。目立たぬよう潜(ひそ)んで暮らしてゆくには良いのかもしれません。
□+■=■ → ■+□+□+□=■
図工や美術の水彩画で、誤って黒の絵具を多く混ぜてしまい、パレットのその部分を無駄にしてしまった覚えがあります。一度でも黒に染まってしまった色に、もう一度明るさを取り戻させるのは大変なことです。パレットの絵具は水に流すことができます。しかし、そうできないものも世の中にはあるのです。
さて、今のあなたはどのような色が好きですか。
この先、あなたはどのような色を奏でたいですか。
今のあなたはどのような色に映っているのでしょうか。
今回のボヤッキー 「今の私は何色なのでしょうか。今回の選挙で教えて欲しいと考えるのであります」
「日本沈没まで、あと107日」
Thursday, April 05, 2007
ひとりごとⅥ⑲
東京都知事選 2007
石原 慎太郎(いしはら しんたろう、1932年9月30日- )氏は、日本の政治家、小説家。学歴は一橋大学法学部卒業(法学士)。自民党員。現東京都知事、元衆議院議員、元参議院議員。環境庁長官、運輸大臣を歴任。現同賞審査委員。戸塚ヨットスクールを支援する会会長。賞歴は芸術選奨文部大臣賞。第34回芥川賞、平林たいこ賞受賞。
新しい歴史教科書をつくる会に賛同するなど、右派・新保守主義的政治家の代表として知られる。日本の著名な歌手兼俳優の石原裕次郎の実兄という知名度、強い個性とリーダーシップというイメージから、1999年の東京都知事選では有力候補を押さえて大差で当選し、続く2003年の都知事選では有力な他候補が存在しなかったこともあり、史上最高の得票率を得て再選し、現在二期目である。
兵庫県神戸市須磨区生まれ。一橋大学在学中の1956年、『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞、文壇デビューを果たす。1968年に参議院議員に初当選、1972年には衆議院に鞍替え出馬し当選する(以後連続8回当選)。1975年、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自民党推薦で出馬するも落選。その後1976年福田内閣で環境庁長官を、1987年竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した。1999年、再度、都知事選に出馬。立候補を表明するのが有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康といった有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。 女性蔑視の観点をうかがわせる「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です 」「きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」という発言をし、裁判に発展している。(いわゆるババァ発言事件)
1999年9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後、記者会見で「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。「人格あるのかね」については、即日「文学者としての表現」と弁明した。(朝日新聞1999年9月18日より)
「ニートなんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです。」「今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ。」「フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは。」との見解を示している。田中良都議から、石原が(働いている)フリーターも穀つぶしと非難したことはワーキングプアに対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います。」として過去の自身の発言とは異なる見解を示した。
石原は政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の産経新聞社主水野成夫を介して霊友会の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得することに成功している。自らも霊友会の信者であり、自らの信仰を吐露する著作(「法華経を生きる」など)も書いており、霊友会の雑誌「あした21」には連載を持っている。小谷喜美霊友会初代会長を師として仰いでおり、大形市太郎霊友会現会長とは対談を行っている。また、2002年には霊友会の新年会では挨拶を行っている。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債(借金)は、バブル経済崩壊とその後の景気低迷の影響による都税収入の落ち込み、バブル期以来の臨海副都心開発の失敗などにより2006年度末に17兆円を突破しており、都民一人当たりの負債額は約140万円と共に全国最多、現在も増加し続けている。(東京都の借金時計)特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を進めている。
「何が贅沢かといえば、まず福祉」と主張して、石原都知事主導で福祉に関連する「福祉改革」(社会保障費の削減・合理化)が行われた。1999年から2004年までに以下の政策により福祉予算を661億円削減した。
・シルバーパス(敬老パス)の全面有料化
・寝たきり高齢者への老人福祉手当の段階的廃止
・障害者医療費助成の対象を縮小
・特別養護老人ホームへの補助を4年間で181億円(85%)削減
・難病医療費助成の対象から慢性肝炎を除外
・盲導犬の飼育代、盲ろう者のための通訳者養成講座の廃止
2003年に都知事主導で東京都が策定した東京発金融改革を旗印に『資金調達に悩む中小企業を救済すること』を理念として新銀行東京を設立。都税1000億を投資したが、毎年大幅な赤字を出しているため、2006年9月までに累積赤字は456億円に膨らみ、投資された1000億円もの都税の半分近くがすでに消滅している。また、本来は中小企業を救済するはずだったが中小企業向け融資は1225億円で貸出金全体の約52%と、資金繰りに苦しむ中小企業の支援という設立目的が揺らいでおり、主に三男石原宏高の地盤の品川区と大田区の企業に融資していたことから身内の選挙対策ではないかと言われている。
「まったく新しい大学をつくる」という公約を掲げ、東京都立大学を改組し首都大学東京を開学。名称公募では東京都立大学が最多だったが、石原都知事の意向で名称が首都大学東京となった。都からの一方的なトップダウンの大学改組や雇用不安定化に対し大学教員側が反発、著名な教授などを含めた多数の教職員が大学を去り、他の有名大学へ移籍した。首都大に改編後の偏差値は急落している。
青島都政の政策を引き継ぎ、ディーゼル車への粒子状物質排出規制を首都圏の他の自治体と共同して行った。これに関連して、環境汚染の原因になるだけではなく脱税の温床となっている不正軽油の撲滅に強い意欲を注いでいる。
鈴木俊一元知事以来の第三セクターによるバブル崩壊後のお台場の臨海副都心開発計画は大赤字を出して行き詰まっていたが、石原知事は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度には第三セクター三社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらにはビルの都による借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円(2006年まで)を費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。2006年5月12日には東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発の3社の第三セクターは財政破たんし、最終的な負債総額は3668億円と確定した。
石原都知事は、中央区築地にある公設の日本を代表する卸売市場である築地市場を2012年度を目処に江東区豊洲地区へ移転させる方針を明らかにしている。しかし、予定地である東京ガスの工場跡地において、環境基準を超える毒物(鉛・ヒ素・六価クロム・シアン・水銀・ベンゼンの6種類が国の環境基準を超えており、発癌性物質であるベンゼンにいたっては国の基準の1500倍である)が検出されるなど土壌汚染が判明している。また、土壌を入れ替え、アスファルトで被覆する都の対策では不十分との指摘がある。関係者は「生鮮食品を扱う場所に移転するのは論外」とし、築地市場移転反対派の団体「市場を考える会」が中心となって、移転反対運動を行っている。石原都知事は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。ほかに適地はない」として移転計画を変更するつもりはないとし、移転後の築地の跡地は招致活動を行っている2016年東京オリンピックのメディアセンターとする構想を明らかにしている。
2006年11月、資料が入手できた15回の石原都知事の海外出張旅費の総経費が2億4000万円を超えることが明らかになった。海外出張の回数は1999年の就任から2006年までに19回と多く、その目的のほとんどが、オリンピック、マラソン、観光などで、石原都知事の個人的関心にもとづき計画されたものだった。
その他、トーキョーワンダーサイト、官官接待、現金2000万円受け取り疑惑など。
選挙公約(3期目)
・環境革命の続行
・子育て支援プログラムと中学3年生まで医療費ゼロ
・都立施設や都立小中高校の食事・給食に東京ブランドの食材導入推進
・神奈川県・千葉県・埼玉県の各知事と首都圏知事連合をつくって、道州制を実現
・2016年に東京オリンピックを招致
・高齢者の起業やNPO法人の活動を支援する機関を作る
・都庁の展望台や都の保有財産を有効利用して、歳入を増やす
・公立小中高校グラウンドの芝生化
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
湘南の鵠沼(くげぬま)近辺の住宅地を歩いて回ったことがある。見渡すとセンスのある洒落た家が点在し、その多くにはセキュリティーが入っている、そんな町。湘南と言えば、幾つかの映画を思い出す。湘南の森戸から茅ヶ崎・・・、こういった場所にはそのような家が多いのだろう。たしかに、歩いてゆける距離に海があるのだから、住むのに憧れる場所ではあると思う。ところで、この辺りにはどういった人達が住んでいるのだろうか。条件的に高級住宅地であることは間違いなく、きっと企業や官庁の、それなりのポジションにおられる方々なのだろう。町を歩いてゆくと、赤く錆びた門や鉄の柱などが目に留まる。海が近い分、潮風が年中吹き付けるのだから、腐食は仕方がないのだろう。
良くも悪くも、
繋がっているからね。
「日本沈没まで、あと108日」
東京都知事選 2007
石原 慎太郎(いしはら しんたろう、1932年9月30日- )氏は、日本の政治家、小説家。学歴は一橋大学法学部卒業(法学士)。自民党員。現東京都知事、元衆議院議員、元参議院議員。環境庁長官、運輸大臣を歴任。現同賞審査委員。戸塚ヨットスクールを支援する会会長。賞歴は芸術選奨文部大臣賞。第34回芥川賞、平林たいこ賞受賞。
新しい歴史教科書をつくる会に賛同するなど、右派・新保守主義的政治家の代表として知られる。日本の著名な歌手兼俳優の石原裕次郎の実兄という知名度、強い個性とリーダーシップというイメージから、1999年の東京都知事選では有力候補を押さえて大差で当選し、続く2003年の都知事選では有力な他候補が存在しなかったこともあり、史上最高の得票率を得て再選し、現在二期目である。
兵庫県神戸市須磨区生まれ。一橋大学在学中の1956年、『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞、文壇デビューを果たす。1968年に参議院議員に初当選、1972年には衆議院に鞍替え出馬し当選する(以後連続8回当選)。1975年、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自民党推薦で出馬するも落選。その後1976年福田内閣で環境庁長官を、1987年竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した。1999年、再度、都知事選に出馬。立候補を表明するのが有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康といった有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。 女性蔑視の観点をうかがわせる「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です 」「きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」という発言をし、裁判に発展している。(いわゆるババァ発言事件)
1999年9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後、記者会見で「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。「人格あるのかね」については、即日「文学者としての表現」と弁明した。(朝日新聞1999年9月18日より)
「ニートなんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです。」「今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ。」「フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは。」との見解を示している。田中良都議から、石原が(働いている)フリーターも穀つぶしと非難したことはワーキングプアに対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います。」として過去の自身の発言とは異なる見解を示した。
石原は政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の産経新聞社主水野成夫を介して霊友会の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得することに成功している。自らも霊友会の信者であり、自らの信仰を吐露する著作(「法華経を生きる」など)も書いており、霊友会の雑誌「あした21」には連載を持っている。小谷喜美霊友会初代会長を師として仰いでおり、大形市太郎霊友会現会長とは対談を行っている。また、2002年には霊友会の新年会では挨拶を行っている。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債(借金)は、バブル経済崩壊とその後の景気低迷の影響による都税収入の落ち込み、バブル期以来の臨海副都心開発の失敗などにより2006年度末に17兆円を突破しており、都民一人当たりの負債額は約140万円と共に全国最多、現在も増加し続けている。(東京都の借金時計)特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を進めている。
「何が贅沢かといえば、まず福祉」と主張して、石原都知事主導で福祉に関連する「福祉改革」(社会保障費の削減・合理化)が行われた。1999年から2004年までに以下の政策により福祉予算を661億円削減した。
・シルバーパス(敬老パス)の全面有料化
・寝たきり高齢者への老人福祉手当の段階的廃止
・障害者医療費助成の対象を縮小
・特別養護老人ホームへの補助を4年間で181億円(85%)削減
・難病医療費助成の対象から慢性肝炎を除外
・盲導犬の飼育代、盲ろう者のための通訳者養成講座の廃止
2003年に都知事主導で東京都が策定した東京発金融改革を旗印に『資金調達に悩む中小企業を救済すること』を理念として新銀行東京を設立。都税1000億を投資したが、毎年大幅な赤字を出しているため、2006年9月までに累積赤字は456億円に膨らみ、投資された1000億円もの都税の半分近くがすでに消滅している。また、本来は中小企業を救済するはずだったが中小企業向け融資は1225億円で貸出金全体の約52%と、資金繰りに苦しむ中小企業の支援という設立目的が揺らいでおり、主に三男石原宏高の地盤の品川区と大田区の企業に融資していたことから身内の選挙対策ではないかと言われている。
「まったく新しい大学をつくる」という公約を掲げ、東京都立大学を改組し首都大学東京を開学。名称公募では東京都立大学が最多だったが、石原都知事の意向で名称が首都大学東京となった。都からの一方的なトップダウンの大学改組や雇用不安定化に対し大学教員側が反発、著名な教授などを含めた多数の教職員が大学を去り、他の有名大学へ移籍した。首都大に改編後の偏差値は急落している。
青島都政の政策を引き継ぎ、ディーゼル車への粒子状物質排出規制を首都圏の他の自治体と共同して行った。これに関連して、環境汚染の原因になるだけではなく脱税の温床となっている不正軽油の撲滅に強い意欲を注いでいる。
鈴木俊一元知事以来の第三セクターによるバブル崩壊後のお台場の臨海副都心開発計画は大赤字を出して行き詰まっていたが、石原知事は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度には第三セクター三社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらにはビルの都による借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円(2006年まで)を費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。2006年5月12日には東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発の3社の第三セクターは財政破たんし、最終的な負債総額は3668億円と確定した。
石原都知事は、中央区築地にある公設の日本を代表する卸売市場である築地市場を2012年度を目処に江東区豊洲地区へ移転させる方針を明らかにしている。しかし、予定地である東京ガスの工場跡地において、環境基準を超える毒物(鉛・ヒ素・六価クロム・シアン・水銀・ベンゼンの6種類が国の環境基準を超えており、発癌性物質であるベンゼンにいたっては国の基準の1500倍である)が検出されるなど土壌汚染が判明している。また、土壌を入れ替え、アスファルトで被覆する都の対策では不十分との指摘がある。関係者は「生鮮食品を扱う場所に移転するのは論外」とし、築地市場移転反対派の団体「市場を考える会」が中心となって、移転反対運動を行っている。石原都知事は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。ほかに適地はない」として移転計画を変更するつもりはないとし、移転後の築地の跡地は招致活動を行っている2016年東京オリンピックのメディアセンターとする構想を明らかにしている。
2006年11月、資料が入手できた15回の石原都知事の海外出張旅費の総経費が2億4000万円を超えることが明らかになった。海外出張の回数は1999年の就任から2006年までに19回と多く、その目的のほとんどが、オリンピック、マラソン、観光などで、石原都知事の個人的関心にもとづき計画されたものだった。
その他、トーキョーワンダーサイト、官官接待、現金2000万円受け取り疑惑など。
選挙公約(3期目)
・環境革命の続行
・子育て支援プログラムと中学3年生まで医療費ゼロ
・都立施設や都立小中高校の食事・給食に東京ブランドの食材導入推進
・神奈川県・千葉県・埼玉県の各知事と首都圏知事連合をつくって、道州制を実現
・2016年に東京オリンピックを招致
・高齢者の起業やNPO法人の活動を支援する機関を作る
・都庁の展望台や都の保有財産を有効利用して、歳入を増やす
・公立小中高校グラウンドの芝生化
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
湘南の鵠沼(くげぬま)近辺の住宅地を歩いて回ったことがある。見渡すとセンスのある洒落た家が点在し、その多くにはセキュリティーが入っている、そんな町。湘南と言えば、幾つかの映画を思い出す。湘南の森戸から茅ヶ崎・・・、こういった場所にはそのような家が多いのだろう。たしかに、歩いてゆける距離に海があるのだから、住むのに憧れる場所ではあると思う。ところで、この辺りにはどういった人達が住んでいるのだろうか。条件的に高級住宅地であることは間違いなく、きっと企業や官庁の、それなりのポジションにおられる方々なのだろう。町を歩いてゆくと、赤く錆びた門や鉄の柱などが目に留まる。海が近い分、潮風が年中吹き付けるのだから、腐食は仕方がないのだろう。
良くも悪くも、
繋がっているからね。
「日本沈没まで、あと108日」
Wednesday, April 04, 2007
ひとりごとⅥ⑱
論争の臨海部 遊説素通り
「東京都知事選で争点となった五輪会場や築地市場の移転候補地を抱え、論争の”舞台”となった臨海部での選挙戦が盛り上がりに欠けている。「都心回帰」で高層マンションが増えた地域では投票所の設置に追われているが、共働き世帯の多い街に日中遊説入りする陣営は少ない。舌戦や地元選挙管理委員会の慌ただしさとは裏腹に、各候補の目は都心や多摩地域の大票田に向きがちだ。(=以下の記事は意味をもって省略)」 (4月3日 日経新聞)
期日前投票1.89倍に
「東京都選挙管理委員会は2日、都知事選の期日前投票が124,682票(1日現在)と、前回2003年選挙の不在者投票の1.89倍に達したと発表した。=中略=期日前投票は投票前日の7日(時間は午前8時30分~午後8時、各市区町村役場で予め確認のこと)まで。都内の市区町村の庁舎や出張所など262ヵ所で受け付けている。」
(4月3日 日経新聞)
今回のボヤッキー 「少なくともボクら一族はすまないけどね、ポチッとな・・・」
「日本沈没まで、あと109日」
論争の臨海部 遊説素通り
「東京都知事選で争点となった五輪会場や築地市場の移転候補地を抱え、論争の”舞台”となった臨海部での選挙戦が盛り上がりに欠けている。「都心回帰」で高層マンションが増えた地域では投票所の設置に追われているが、共働き世帯の多い街に日中遊説入りする陣営は少ない。舌戦や地元選挙管理委員会の慌ただしさとは裏腹に、各候補の目は都心や多摩地域の大票田に向きがちだ。(=以下の記事は意味をもって省略)」 (4月3日 日経新聞)
期日前投票1.89倍に
「東京都選挙管理委員会は2日、都知事選の期日前投票が124,682票(1日現在)と、前回2003年選挙の不在者投票の1.89倍に達したと発表した。=中略=期日前投票は投票前日の7日(時間は午前8時30分~午後8時、各市区町村役場で予め確認のこと)まで。都内の市区町村の庁舎や出張所など262ヵ所で受け付けている。」
(4月3日 日経新聞)
今回のボヤッキー 「少なくともボクら一族はすまないけどね、ポチッとな・・・」
「日本沈没まで、あと109日」
Tuesday, April 03, 2007
ひとりごとⅥ⑰
東京都知事選 2007
吉田 万三(よしだ まんぞう、1947年9月19日- )氏は、地方政治家、歯科医師。東京民主医療機関連合会副会長。前東京都足立区長(1996年-1999年)。
父は産別会議議長・日本共産党幹部会名誉委員だった吉田資治。
東京都立大学附属高等学校、北海道大学歯学部卒業。歯科医師を経て、1996年に実施された東京都足立区長選挙で日本共産党・新社会党の推薦を受け出馬。保守が分裂状態で複数の候補が立っていた上に区庁舎跡地の開発をめぐって住民から保守派への批判の声が少なくなかったことから、区政批判に乗る形で当選した。しかし当選後は日本共産党を除く区議会多数派(自民党・民主党・公明党)が野党に廻り、少数与党下での苦しい区政運営を強いられた。その上1999年に区議会の任期満了ぎりぎりで吉田区長の不信任案を可決、吉田は区議会を解散したものの、新議会でも野党が多数を占め吉田は失職。出直し区長選では区議会多数派の三党に加え社民党・「東京・生活者ネットワーク」(ネット)が推薦した鈴木恒年元助役に敗れ、区長を退く。2003年の区長選にも出馬したが、鈴木区長に再度敗れている。
2006年10月、2007年4月に行われる東京都知事選挙に、「革新都政をつくる会」を確認団体にして立候補することを表明した。また同会に政党として唯一参加している日本共産党から推薦も受け、立候補した。
主なマニフェストは
・オリンピック招致中止
・新銀行東京への都出資金の見直し
・高齢者の医療費負担を2割に押さえ、中学生までの子供に対する医療費を無料にす
る
・築地市場の豊洲移転を見直し
・東京の3環状中央環状線、東京外環自動車道(圏央道)の建設凍結
・日の丸・君が代の強制を改める
・大型デパートやチェーン店の出店を規制する
などとしている。
(以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
共産党と言えば、国政において、また都政や区政においても、他の政党から嫌がられるほどに「政治とカネ」について厳しく言及している。今回のマニフェストを見る限りでは、都民の安定した暮らしのための政策であり、特にお年寄りや子どもといった弱者への想いを見てとることはできる。ただ、メタボの体型と、「吉田」という名字には個人的に少し不安を覚えるのである。そこで、この吉田氏を推薦する共産党の、政党としての本質をも見極める必要があるのだと思う。
・吉田万三氏のホームページ
・日本共産党のホームページ
公明党(創価学会)が日本国憲法に定める「政教分離の原則」に反しているといった内容の主張は、機関誌の過去の記事の中に確認することができる。
・九条を守る共産党 改悪の自・公・民 社民は行動に矛盾
・週刊誌が報道している創価学会・公明党機関紙印刷問題
「日本沈没まで、あと110日」
東京都知事選 2007
吉田 万三(よしだ まんぞう、1947年9月19日- )氏は、地方政治家、歯科医師。東京民主医療機関連合会副会長。前東京都足立区長(1996年-1999年)。
父は産別会議議長・日本共産党幹部会名誉委員だった吉田資治。
東京都立大学附属高等学校、北海道大学歯学部卒業。歯科医師を経て、1996年に実施された東京都足立区長選挙で日本共産党・新社会党の推薦を受け出馬。保守が分裂状態で複数の候補が立っていた上に区庁舎跡地の開発をめぐって住民から保守派への批判の声が少なくなかったことから、区政批判に乗る形で当選した。しかし当選後は日本共産党を除く区議会多数派(自民党・民主党・公明党)が野党に廻り、少数与党下での苦しい区政運営を強いられた。その上1999年に区議会の任期満了ぎりぎりで吉田区長の不信任案を可決、吉田は区議会を解散したものの、新議会でも野党が多数を占め吉田は失職。出直し区長選では区議会多数派の三党に加え社民党・「東京・生活者ネットワーク」(ネット)が推薦した鈴木恒年元助役に敗れ、区長を退く。2003年の区長選にも出馬したが、鈴木区長に再度敗れている。
2006年10月、2007年4月に行われる東京都知事選挙に、「革新都政をつくる会」を確認団体にして立候補することを表明した。また同会に政党として唯一参加している日本共産党から推薦も受け、立候補した。
主なマニフェストは
・オリンピック招致中止
・新銀行東京への都出資金の見直し
・高齢者の医療費負担を2割に押さえ、中学生までの子供に対する医療費を無料にす
る
・築地市場の豊洲移転を見直し
・東京の3環状中央環状線、東京外環自動車道(圏央道)の建設凍結
・日の丸・君が代の強制を改める
・大型デパートやチェーン店の出店を規制する
などとしている。
(以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
共産党と言えば、国政において、また都政や区政においても、他の政党から嫌がられるほどに「政治とカネ」について厳しく言及している。今回のマニフェストを見る限りでは、都民の安定した暮らしのための政策であり、特にお年寄りや子どもといった弱者への想いを見てとることはできる。ただ、メタボの体型と、「吉田」という名字には個人的に少し不安を覚えるのである。そこで、この吉田氏を推薦する共産党の、政党としての本質をも見極める必要があるのだと思う。
・吉田万三氏のホームページ
・日本共産党のホームページ
公明党(創価学会)が日本国憲法に定める「政教分離の原則」に反しているといった内容の主張は、機関誌の過去の記事の中に確認することができる。
・九条を守る共産党 改悪の自・公・民 社民は行動に矛盾
・週刊誌が報道している創価学会・公明党機関紙印刷問題
「日本沈没まで、あと110日」
Monday, April 02, 2007
ひとりごとⅥ⑯
東京都知事選 2007
浅野 史郎(あさの しろう、1948年2月8日- )氏は日本の元政治家、元厚生官僚、元宮城県知事(在任期間:1993年11月21日- 2005年11月20日)。現在は慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科教授などを務める。宮城県仙台市出身。
1966年 宮城県仙台第二高等学校卒業。
1970年 東京大学法学部卒業後、厚生省(現厚生労働省)入省。
1972年 アメリカイリノイ大学留学。帰国後、厚生省社会局老人福祉課課長補佐。
1978年 外務省在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官。
1981年 厚生省年金局年金課課長補佐。
1985年 北海道庁福祉課課長。
1987年 厚生省児童家庭局障害福祉課課長。
1993年 厚生省生活衛生局企画課課長を最終役職に、厚生省退官。
1993年~2005年 宮城県知事(3期)。
2005年 社会福祉法人宮城県社会福祉協議会会長。
2005年 4選不出馬を表明した上で任期満了に伴い、宮城県知事退任。
2005年 東北大学大学院法学研究科附属法政実務教育研究センター客員教授。
2006年 慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科教授。
2007年 社会福祉法人宮城県社会福祉協議会会長を辞任。
1993年、ゼネコン汚職事件で当時現職の知事だった本間俊太郎が逮捕され辞任したことによる宮城県知事選挙に新生党・日本新党・さきがけ・社民連の推薦を受け立候補し、自民党・社会党・民社党が推薦した前副知事ら3候補を破り初当選。1997年は既成政党の推薦や支持を受けない"脱政党"を打ち出して出馬し、市川一朗(自民党・新進党・公明推薦)らをダブルスコアで下し再選。
在職中の実績として特に評価されているのが情報公開で、全国市民オンブズマン連絡会議による全国情報公開度ランキングにおいて宮城県は2004年度は47都道府県中岩手県と同ポイントの全国1位タイ、2005年度は鳥取県に次ぐ2位の高評価を受けた。また、厚生省のキャリア官僚時代、障害福祉課長を務めていた経歴から、福祉および介護の分野に詳しい。ホームヘルパーの資格をもっていると誤解をされるほど、熱心に福祉に取り組んできた。ことに知的障害者を、施設ではなく、地域で受け入れていくという「施設解体」の取り組みが先進的であった。
知事として就任した1993年の年度末に7,105億円あった県債残高は2005年度末には1兆3,653億円へと膨れ上がっている。県の借金が増加した理由の一つとしては、県立こども病院問題がある。病院は前知事時代に財政難で廃案となり「既存の施設を利用して県内各地に小児科医を配置する」という代案が提示されたが、浅野が建設を再び決定した。その病院は2003年に開院したが、現在も巨額の赤字を生み出している。また、その建設に反対して浅野によって図書館に異動させられた(事実上、左遷させられた)元出納長が自殺する事件がおきた。左派からは「福祉を切り捨て」、右派からは「ばらまき福祉」と両極端の批判をされるが、実際の財政における福祉の規模に関しては、全都道府県(47)の中で社会福祉費は43位、児童福祉費は41位と全国的に見て低い支出水準で就任前から退任後まで順位は変わらず一定で、大きな増減はなかった。
東京都知事選に立候補した際に選挙費用の予算が2,500万円で、公費として600万円出たものの残り1,900万円が足らず、資金援助を訴えた。但し、宮城県知事退職金1億5,000万円を受領しているが、こちらについては触れられていない。県の財政難により県職員の給与を二度カットした。しかし、自らは任期3期で退職金5,000万円ずつ、計1億5,000万円を全額受領した。
平成11年6月2日に行われた「衆議院国会等の移転に関する特別委員会」において、浅野は宮城県知事として出席し、「首都機能移転を早急に推進すべきである」との主張を行った。参考資料として「みやぎ新首都宣言」という冊子を挙げながら、日本を再生するためには首都機能移転が重要であるとしている。
以下の内容はマニフェストとして発表された。
・オリンピック招致を全面見直し
・新銀行東京の解体を含めた見直し
・幹部職員や都議会の交際費などを全面公開
・福祉の充実、非正規社員から正規社員への促進、子育て支援に積極的な企業の支
援制度を作る
・日の丸・君が代の強制を改める
その他、築地市場の移転反対を明言している。
(以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
東大出身の元キャリア官僚。それも特に問題の多い厚生労働省。さらに国民の税金でアメリカ留学。このあたりについては何とも言いようがない。一番引っ掛かるのが立候補までの経緯。当初、この都知事選への立候補は無いと言っていたのにも拘らず、民主党が擁立する候補者がなかなか決まらないといった状況での出馬表明。本気度は低いと考えるのが妥当ではないだろうか。つまり、浅野氏を支援する民主党の本当の支持は石原慎太郎氏なのではないかということ。民主党は国政においては一応のところ野党、一方、区政においては自民党なんかと共に与党側。そして、都政の下に区政があることを考えると、都市計画などの兼ね合いから与党側にとって現状維持がより好ましいはずである。さもなくば、操縦の利くタイプ。2期目の選挙で「脱政党」を掲げていることから、1期目は支持や支援を受けた政党・団体等からの「しがらみ」にひどく悩まされたのかもしれない。知事3期分の退職金1億5,000万円と、この知事選での選挙資金不足は明らかに変な話・・・勘です。
今回のボヤッキー 「ついに、ナントカ還元水が告発されたのであります」
「日本沈没まで、あと111日」
東京都知事選 2007
浅野 史郎(あさの しろう、1948年2月8日- )氏は日本の元政治家、元厚生官僚、元宮城県知事(在任期間:1993年11月21日- 2005年11月20日)。現在は慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科教授などを務める。宮城県仙台市出身。
1966年 宮城県仙台第二高等学校卒業。
1970年 東京大学法学部卒業後、厚生省(現厚生労働省)入省。
1972年 アメリカイリノイ大学留学。帰国後、厚生省社会局老人福祉課課長補佐。
1978年 外務省在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官。
1981年 厚生省年金局年金課課長補佐。
1985年 北海道庁福祉課課長。
1987年 厚生省児童家庭局障害福祉課課長。
1993年 厚生省生活衛生局企画課課長を最終役職に、厚生省退官。
1993年~2005年 宮城県知事(3期)。
2005年 社会福祉法人宮城県社会福祉協議会会長。
2005年 4選不出馬を表明した上で任期満了に伴い、宮城県知事退任。
2005年 東北大学大学院法学研究科附属法政実務教育研究センター客員教授。
2006年 慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科教授。
2007年 社会福祉法人宮城県社会福祉協議会会長を辞任。
1993年、ゼネコン汚職事件で当時現職の知事だった本間俊太郎が逮捕され辞任したことによる宮城県知事選挙に新生党・日本新党・さきがけ・社民連の推薦を受け立候補し、自民党・社会党・民社党が推薦した前副知事ら3候補を破り初当選。1997年は既成政党の推薦や支持を受けない"脱政党"を打ち出して出馬し、市川一朗(自民党・新進党・公明推薦)らをダブルスコアで下し再選。
在職中の実績として特に評価されているのが情報公開で、全国市民オンブズマン連絡会議による全国情報公開度ランキングにおいて宮城県は2004年度は47都道府県中岩手県と同ポイントの全国1位タイ、2005年度は鳥取県に次ぐ2位の高評価を受けた。また、厚生省のキャリア官僚時代、障害福祉課長を務めていた経歴から、福祉および介護の分野に詳しい。ホームヘルパーの資格をもっていると誤解をされるほど、熱心に福祉に取り組んできた。ことに知的障害者を、施設ではなく、地域で受け入れていくという「施設解体」の取り組みが先進的であった。
知事として就任した1993年の年度末に7,105億円あった県債残高は2005年度末には1兆3,653億円へと膨れ上がっている。県の借金が増加した理由の一つとしては、県立こども病院問題がある。病院は前知事時代に財政難で廃案となり「既存の施設を利用して県内各地に小児科医を配置する」という代案が提示されたが、浅野が建設を再び決定した。その病院は2003年に開院したが、現在も巨額の赤字を生み出している。また、その建設に反対して浅野によって図書館に異動させられた(事実上、左遷させられた)元出納長が自殺する事件がおきた。左派からは「福祉を切り捨て」、右派からは「ばらまき福祉」と両極端の批判をされるが、実際の財政における福祉の規模に関しては、全都道府県(47)の中で社会福祉費は43位、児童福祉費は41位と全国的に見て低い支出水準で就任前から退任後まで順位は変わらず一定で、大きな増減はなかった。
東京都知事選に立候補した際に選挙費用の予算が2,500万円で、公費として600万円出たものの残り1,900万円が足らず、資金援助を訴えた。但し、宮城県知事退職金1億5,000万円を受領しているが、こちらについては触れられていない。県の財政難により県職員の給与を二度カットした。しかし、自らは任期3期で退職金5,000万円ずつ、計1億5,000万円を全額受領した。
平成11年6月2日に行われた「衆議院国会等の移転に関する特別委員会」において、浅野は宮城県知事として出席し、「首都機能移転を早急に推進すべきである」との主張を行った。参考資料として「みやぎ新首都宣言」という冊子を挙げながら、日本を再生するためには首都機能移転が重要であるとしている。
以下の内容はマニフェストとして発表された。
・オリンピック招致を全面見直し
・新銀行東京の解体を含めた見直し
・幹部職員や都議会の交際費などを全面公開
・福祉の充実、非正規社員から正規社員への促進、子育て支援に積極的な企業の支
援制度を作る
・日の丸・君が代の強制を改める
その他、築地市場の移転反対を明言している。
(以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
東大出身の元キャリア官僚。それも特に問題の多い厚生労働省。さらに国民の税金でアメリカ留学。このあたりについては何とも言いようがない。一番引っ掛かるのが立候補までの経緯。当初、この都知事選への立候補は無いと言っていたのにも拘らず、民主党が擁立する候補者がなかなか決まらないといった状況での出馬表明。本気度は低いと考えるのが妥当ではないだろうか。つまり、浅野氏を支援する民主党の本当の支持は石原慎太郎氏なのではないかということ。民主党は国政においては一応のところ野党、一方、区政においては自民党なんかと共に与党側。そして、都政の下に区政があることを考えると、都市計画などの兼ね合いから与党側にとって現状維持がより好ましいはずである。さもなくば、操縦の利くタイプ。2期目の選挙で「脱政党」を掲げていることから、1期目は支持や支援を受けた政党・団体等からの「しがらみ」にひどく悩まされたのかもしれない。知事3期分の退職金1億5,000万円と、この知事選での選挙資金不足は明らかに変な話・・・勘です。
今回のボヤッキー 「ついに、ナントカ還元水が告発されたのであります」
「日本沈没まで、あと111日」
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