Sunday, December 17, 2006

ひとりごとⅡ⑰

サリドマイド事件~サリドマイドは「安全な」睡眠薬として開発・販売されたが、妊娠初期の妊婦が用いた場合に催奇形性があり、四肢の全部あるいは一部が短いなどの独特の奇形をもつ新生児が多数生じた。日本においては、諸外国が回収した後も販売が続けられ、この約半年の遅れの間に被害児の半分が出生したと推定されている。大日本製薬と厚生省は、西ドイツでの警告や回収措置を無視してこの危険な薬を漫然と売り続けた。米国のFDAが認可せず、治験段階の約10人の被害者に留めたこととは対照的な結果となった。戦後の薬害の原点となる事件である。
日本では、大日本製薬が独自の製法を開発し、1958年1月20日に「イソミン」の名称で販売を開始、1959年8月22日には胃腸薬「プロバンM」に配合して市販した。東京の都立築地産院では1959年から1961年までに3例のフォコメリア児の出産が報告されるなど、全国で被害が生じたが、大日本製薬は当時西ドイツに研究員を派遣するなどして情報を入手していたにもかかわらずこれを無視し販売を続けた。また厚生省も1962年2月に亜細亜製薬のサリドマイド剤「パングル」を認可するなど、世界の大勢を全く無視し続けた。
1962年5月17日に大日本製薬がイソミンとプロバンMの出荷停止を、24日にはサリドマイド剤メーカー5社がそれぞれの製品の出荷停止を厚生省に申し入れた。その9月13日にようやく大日本製薬などが販売停止・回収に踏み切った(しかしその後も回収されないサリドマイド剤が市中で販売されていた)。厚生省は翌14日、サリドマイドの被害調査を東大・森山教授に依頼した。
被害者は、1962年年末までに広島・京都などでイソミンの販売と製造許可に対し法務局に人権侵害で訴えたが、翌5月13日、法務省人権擁護局は「侵害の事実なし」と結論。1963年6月28日に大日本製薬を被告として最初の損害賠償請求が名古屋地裁に提訴された。
1974年10月13日、全国サリドマイド訴訟統一原告団と国及び大日本製薬との間で和解の確認書を調印、続いて26日には東京地裁で和解が成立した。以後、11月12日までの間に、全国8地裁で順次和解が成立した。

無論、薬害事件はこれだけではない。血友病患者に対する薬害も記憶に新しい。

私は小学生か中学生の頃、近くの本屋さんで公害に関するある1冊の本を買って読みました。さすがに詳しい内容までは忘れましたが、そこにはイタイイタイ病や水俣病、四日市ぜんそくなど様々な公害について書かれていました。これらの公害は全てと言って良いほど人間の工業生産によるものでした。有機水銀などの有毒物質を河や海に垂れ流しにしていたのです。そして、人間のそういった行為は理科でいう食物連鎖を経(へ)て、生物濃縮により数万倍の毒物となって我々人間を襲ったのです。その悲劇の要因は前述の高度経済成長期における工業生産と、その調査、管理・監督、指導等を怠(おこた)った行政にあります。結果、とんでもない数の方々が苦しみながら亡くなっていき、また、今現在でも苦しみ続けている方々がいらっしゃるそうです。
物事にはプラス面(+、陽)とマイナス面(-、陰)があります。このプラス面には誰でも飛びつくことでしょう。特に欲深き者ら。しかし、その欲が深いばっかりにそのマイナス面を見ない、若しくは見て見ぬ振りでいるから、暗黒面へと堕(お)ちてしまうのではないか。十人十色。しかし、欲は個々に自制しましょう。そうでないと苦しみや悲しみはこの世から無くなりません。逆に増えるばかりですからね。
ふむ、何事もバランスのようだ。

次回は「橋本病1」を予定しています。

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